ヘンデルどんな人?バッハとの違いや『メサイア』など名曲を解説

バロック音楽の二大巨頭と呼ばれる、バッハとヘンデル。
同じ1685年に生まれた2人ですが、その活躍の舞台やライフスタイルは驚くほど対照的でした。
地域に根ざした音楽家だったバッハに対し、ヘンデルはヨーロッパ中を魅了したグローバルなヒットメーカーだったのです。

本記事では、クラシック初心者の人に向けて、ヘンデルの波乱万丈な生涯と代表曲をわかりやすく解説します。

【この記事の注目ポイント】

  • 家族に内緒で練習?天才の知られざる少年時代
  • 国王を大喜びさせた名曲『水上の音楽』誕生の裏話
  • 絶望の病から奇跡の復活と、不朽の名作『メサイア』
  • 宿命のライバル、バッハとヘンデルを結ぶ「奇妙な共通点」

聴くだけで元気がもらえる、明るく輝かしいヘンデルの音楽。
ヘンデルのキャラクターを知ると、いつもの名曲が深く、楽しく聴こえてくるはずです。
ぜひ最後までご覧ください。

ヘンデルとはどんな人?バッハと対照的な「国際派」の生涯

ヘンデルドイツで誕生、屋根裏部屋でこっそり練習

ヘンデルはドイツ、ブランデンブルク(現在ザクセン)のハレという都市で、宮廷の外科医兼理髪師の家庭で生まれました。
ヘンデルは子供のころから音楽の才能を認められ、ヘンデル自身も音楽の道に進みたいと考えていました。
しかし、お父さんはヘンデルを法律家にしたいと望んでいましたので、音楽家になることに反対します。
そこでヘンデルは家族に内緒で、クラビコード(鍵盤楽器)を手に入れ、屋根裏部屋でこっそり練習していました。
クラビコードは音の強弱を調整することができたので、家族に知られることなく練習することができたそうです。

ある時、お父さんはヴァイセンフェルス侯爵に呼ばれ、息子のゲオルク・ヘンデルも連れていきました。
ヴァイセンフェルス侯爵はヘンデルの弾くオルガンを聴き、ヘンデルの才能に感嘆し音楽の勉強をさせるようにとお父さんを説得しました。
お父さんはヘンデルに音楽の勉強をしても良いと、渋々ながら許可したそうです。

ところが、お父さんはヘンデルが11歳のころに亡くなってしまいます。
生活の支えが無くなったヘンデルは法律家になろうとラテン語を勉強し、ハレ大学に進学します。
しかし、音楽を諦めることができず、音楽の勉強も続けていました。

音楽の都イタリアへ!オペラと宗教音楽の研究

大学進学後も音楽を諦めきれなかったヘンデルは、ドイツ国内でオペラが盛んだった都市、ハンブルグへと旅立ちました。
劇場でヴァイオリニストやチェンバロ奏者として経験を積んだヘンデルは、19歳で初めてのオペラ『アルミーラ』を初演します。
これが20回も上演され、大成功を治めて、音楽愛好家のイタリアのトスカーナ大公子、フェルディナンド・ディ・メディチに才能を認められます。
そして本場のイタリアに行くことを勧められたのです。
メディチはオペラの作曲や演奏をし、劇場まで持っていた音楽愛好家でした。
ヘンデルはこの勧めにイタリア行きを決意します。

ヘンデルローマ教皇のオペラ上演禁止令で、オラトリオに取り組む

ヘンデルはオペラを学ぶつもりでイタリアに行ったものの、当時のローマ教皇は娯楽性の高いオペラの上演を禁止していました。
そこで、ヘンデルはオラトリオやカンタータの作曲に取り組むことにしたのです。

オペラ=ドラマティックな台本に基づいた音楽劇
オラトリオ=17世紀イタリアで誕生した、宗教的題材の歌詞を持つ音楽劇。
カンタータ=オーケストラや楽器の伴奏が付いた声楽曲。

ヘンデルはイタリアではオペラを2曲しか作曲しなかったものの、24歳の時にベネツィアで初演した「アグリッピナ」は大成功をおさめ、27回も上演されたということです。
これによってヘンデルはフランスやイギリスなど近隣の国々にまで知られるようになっていきました。
この時期に、もう国際的な作曲家として認められたのですね!

ヘンデルイギリスへの旅立ちと、名曲『水上の音楽』の誕生

イタリアで声楽や器楽曲の勉強を充分にしたと考えたヘンデルは、25歳の時にドイツにもどり、ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任します。
なんとヘンデルは就任してすぐに1年間の休暇をもらい、ロンドンに向かったのです。
当時のロンドンではオペラが人気だったので、ヘンデルはオペラの作曲を始めています。

ロンドンでの大成功『リナルド』

26歳の時に初演されたオペラ「リナルド」が大成功をおさめ、ヘンデルはロンドンっ子にも喝采をもって迎えられました。
聖地エルサレムを取り戻した十字軍の勇士リナルドの物語が、ドラマティックな音楽と演出によって観客の心を捉えたのです。
このオペラの有名なアリア「泣かせてください」は現在も親しまれて、単独で良く歌われる曲です。26歳で感動的なオペラを作曲したなんて、ヘンデルの天才ぶりが分かりますね。

当時のイギリスはアン女王が治めていましたが、1714年ヘンデル29歳のときにアン女王が亡くなってしまいます。
跡継ぎのいないイギリスでは血縁のあるハノーファー選帝侯を、ジョージ1世として王様に迎えました。

国王ジョージ1世との関係『「水上の音楽』

厄介なことにヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長に任命されてから、1年の休暇でロンドンに行ったのですが、約束にもかかわらず2年もの間ロンドンに住み着いていました。
しかし、どういう事情かは分かりませんが、選帝侯の怒りを買うことなく良好な関係を保ったということです。

英語を話せないジョージ1世は、イギリスではあまり快く迎えられていなかったため、顔見せのため舟遊びを企画します。
そこでジョージ1世はヘンデルに音楽を要望し、作曲されたのが有名な「水上の音楽」でした。
この曲はヘンデルの作品の中でも人気があり、良く演奏される曲の一つです。
トランペットやホルンなどの管楽器が活躍し、明るく輝かしい音が広い戸外での舟遊びを描いて、楽しい気分を盛り上げています。

ヘンデル、イギリスへの帰化と「王室アカデミー」での活躍

水上の音楽を作曲した同じ年に、ヘンデルがオペラを上演していた≪ヘイマーケーット国王劇場≫が閉鎖されることになってしまいます。
ヘンデルはこれによってオペラの作曲を中断することになりました。

しかし1719年に貴族たちによって、イタリアオペラを上演する企業≪王室音楽アカデミー≫が設立され、ヘンデルは音楽監督に任命されます。
ここでのオペラの多くはヘンデルが作曲したものでした。

「ジューリオ・チェーザレ(ジュリウス・シーザー)」「ロデリンダ」「タメルラーノ」などの作品の評価も高く、アカデミーの成功に力を尽くしていました。

38歳の時、王室礼拝堂作曲家に任命され、王室の重要な儀式に使われる曲を作曲することになります。
このようにしてイギリスの音楽界に貢献したヘンデルは、42歳の時にイギリス国籍を得てイギリスに帰化したのです。

ところが順風満帆のように見えたヘンデルに危機が訪れます。
≪王室音楽アカデミー≫は、いい加減な経営が続いて破綻してしまい、1728年に活動を停止せざるを得なくなってしまったのです。

ヘンデルライバルとの闘いと、脳卒中から奇跡的な復活

ヘンデル≪貴族オペラ≫との激しい興行争い

ヘンデルは財産の運用にも優れた腕をもっていたので、その財産でアカデミーを建て直します。
しかし、ジョージ1世が亡くなり息子のジョージ2世が即位したのを、よく思わないフレデリック王太子と貴族とが一緒になり、ヘンデルに対抗して≪貴族オペラ≫を設立したのです。
アカデミーから歌手を引き抜いたり、その他にも汚い手を使っていたようです。

≪貴族オペラ≫は作曲家の腕もヘンデルほどではなく、作品にも魅力がないため人気がなくなり、多額の損失を出して倒産してしまいました。
二つのオペラ劇場は観客も2分されてしまい、経営も難しかったわけですね。

病魔に倒れるも、強い意志でリハビリを

ヘンデルも破産はしなかったものの、経済的な損失と心身の消耗に疲れ果ててしまい、脳卒中を起こします。
しかし、強い意志でリハビリを続け、温泉での療養も助けになって奇跡的に回復したそうです。

さすがですね!! どんなことにも負けない強い意志の持ち主だったのですね。

ヘンデル晩年の名曲『メサイア』と慈善活動

わずか24日で作曲!『メサイア』の大成功

失意のヘンデルにアイルランドの総督キャベンディッシュから、ダブリンで開催される慈善音楽会へのオファーが舞い込みます。
ヘンデルはこれを快諾し、慈善音楽会でオラトリオを演奏します。
この地ではまだ音楽の水準が低かったため、ヘンデルのオラトリオを聴いたダブリンの市民達は、たいそう驚いたとのことです。

そののちの慈善演奏会ではオラトリオ「メサイア」の初演を行い大成功をおさめます。
もともと早書きのヘンデルですが、この大曲をわずか24日で書き上げたそうです。
このメサイアの中で歌われる「ハレルヤコーラス」はとくに有名で、日本でも卒業式などで流れることもあるでしょう。

『王宮の花火の音楽』と孤児院への愛

64歳になって書かれた「王宮の花火の音楽」はその当時オーストリアでの継承戦争(神聖ローマ帝国の皇帝に対する継承問題)が終結したお祝いのために作曲されたものです。

弦楽器、管楽器、打楽器が同時に演奏し、賑やかな花火大会の様子が描かれています。
演奏している人たちも楽しそうで、YouTube等で聴かれると何だかウキウキしてしまいますよ。

ヘンデルは50歳の時にロンドンにある孤児養育院で慈善演奏会を開き「ハレルヤ」を演奏し、亡くなるまで毎年行っていました。そして収益を全額孤児院に寄付していたのです。
遺言にも「メサイア」のスコアとパート譜を寄贈するとあったそうです。

ヘンデル両目の失明、そして奇しくもバッハと同じ眼科医の手術

二度の脳溢血に見舞われても奇跡的に復活したヘンデルでしたが、晩年になって左目を失明してしまいます。
やがて右目も悪くなり、4年後その当時名医と言われていた眼科医の手術を受けたのですが、手術は失敗だったようです。
この眼科医はバッハの目の手術にも失敗しています。

この当時の医学の発達は、今とは大きく違ったものだったのでしょうね。
60代後半で右目も失明してしまったのです。
しかし、作曲は出来なくなっても、演奏活動は続けていました。

ヘンデルの最期バロック音楽の終焉

やがて体調を崩したヘンデルは、74年の生涯を閉じました。
ひっそりと埋葬するようにとのヘンデルの願いに反して3,000人もの人が別れを惜しんで、駆け付けたそうです。
ヘンデルの貢献と人気のほどが分かる出来事ですね。

ヘンデルはいろいろな点でバッハとは対照的でよく比べられますが、二人ともバロック音楽の時代を代表する作曲家であることは間違いはありません。
バッハが学究的で少し難しいと思われるのに対して、ヘンデルの音楽は明るく親しみやすい印象があると思います。
YouTubeやCD、コンサートなどで是非聞いてみて下さい。

ヘンデルのサラバンドは映画「バリー・リンドン」のテーマ音楽にはこちら

ヘンデルのサラバンドは映画「バリー・リンドン」のテーマ音楽に
ヘンデルの「ハープシコード組曲第2集」二短調(HWV437 )サラバンドを、映画「バリー・リンドン」とあわせて書いています。 管弦楽版が映画「バリー・リンドン」のテーマ音楽となりました。荘厳さを持つこの曲が映画のどんな場面で使われているか読んでみて下さい。

ヘンデルのヘンデルのラルゴ≪オンブラ・マイ・フ≫のあらすじと解説はこちら

ヘンデルのラルゴ≪オンブラ・マイ・フ≫のあらすじと解説、編曲版について
ヘンデルのラルゴ≪オンブラ・マイ・フ≫とオペラ「セルセ」について解説しています。歌詞の意味や、オペラの中でどんな場面で歌われるのかを載せました。また、ヴァイオリン、ピアノ、管弦楽用に編曲されたものの特徴を紹介しています。

 

 

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