ショパンどんな人?「ピアノの詩人」の生涯天才少年から旅立ちまで

ショパンと聞くと思いうかべることは何でしょう?
「子犬のワルツ」でしょ。「ノクターン」も有名だよね。かっこいい「革命のエチュード」などなど・・・聴いたことのある人も多いのではないでしょうか。

日本ではショパンがとても人気ですね。
それはピアノを習っている人が多いのと、その人たちは必ずショパンの曲を弾くことになるからでしょう。
ショパンは「ピアノの詩人」といわれるように、ピアノで美しい詩を描いた作曲家です。
そしてピアノ以外の曲はほとんど無い(歌曲が19曲、管弦楽付きピアノ曲6曲、室内楽5曲)といっても良いほどです。

幼少期から恵まれた環境のもとで音楽の勉強をすることができたショパンは、ポーランドの誇りとも言われるほどの、天才ピアニスト、天才作曲家となりました。
激動のヨーロッパの時代をうつし、音楽的感動を生み出した天才なのです。

そんなショパンの幼少期から最期までを、前編・後編に分け時代を追ってひも解いていきます。
前編はショパンのあまり知られていない、少年時代と背年時代を載せました。
くわしく解説しますので、ぜひ最後まで読んでくださいね。

ショパンはどんな少年だったの?

フレデリック・フランソワ・ショパン(1810年~1849年)はロマン派音楽の代表的な作曲家です。
ショパンはポーランドの首都ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、しばらくしてワルシャワに移り住みました。
ショパンの生まれた家庭は、フランス語の教師だったフランス人のお父さんニコラ・ショパンと、ポーランド士族の血筋を引くお母さんユスティーナ、3人の姉妹、そしてフレデリック・ショパンの6人家族です。
4歳の頃に、お母さんやお姉さんにピアノの手ほどきを受けたそうです。
6歳になってピアノ教師ヴォイチェフ・ブヌイに師事し、7歳で「ポロネーズト短調」を作曲、出版までされたそうです。
8歳のときには演奏会にも出演して大成功をおさめました。

驚くほど早熟な天才少年だったのですね!

ショパン少年はピアノの前に座ると表情も変わり、すでにオーラを感じさせていましたが、普段は冗談好きの普通の男の子で、やさしくて大変人気者だったとか。

お父さんとお母さんはそれぞれに、ショパンの将来を思い描いていたのです。
お父さんは、息子が大統領か大臣になってほしいと!お母さんはなんとショパンに軍人になって将軍か、せめて大佐になって欲しいと!
ショパンは、学業の上でもそんな期待をされるほどに優れていたのです。

それにしてもショパンの芸術を知る私たちには驚くべき夢ですよね!

程なくして、両親はショパンが音楽以外には興味を持っていないことに気づかされます。
そしてその才能が並外れたものであることにも気づくのです。
しかし、お父さんは「音楽家だなんて!ワルシャワには掃いて捨てるほどの音楽家がいるが、そのうちの何人が、フロックコートの肘やズボンの膝をつぎで光らせなくて済むのか?」と嘆きます。

この当時も音楽家は生きづらかったのですね。

やがてお父さんはショパン少年が批評家やきびしい専門家たちからも「未来の輝く星だ」と認められたので、ヨーロッパで名声ある音楽家たちの情報を集めて、息子を音楽家にする決心をしました。

ショパン休暇中、田舎を体験しポーランドの民謡に出会う

ショパンと末の妹エミルカは幼い頃から体が弱く、両親は胸を痛めていました。
医者によると農村(田園)の澄み切った空気、松林、質素な食べ物がショパンの体には薬だということです。
そこでショパンが、13歳の頃の夏休みにマゾフシェ地方にある、友達の家でホームステイをすることになりました。

このころショパンはバッハやモーツアルト、ベートーヴェンの作品を勉強していたのですが、その素晴らしさに感動するも、それらの巨匠が求めていた新しい音楽を生み出すことが、自分の作品には無いことに悩んでいました。
つまり自分の作品がどこかよその国のもので、自分の作品なのに親しみを覚えなかったのです。
こんなに幼い時に、自分の作品が借り物であることについて悩んでいたのですね。

ところが、この田舎では農民の歌や子供たちの家畜を追う歌など、昔から歌いつがれたポーランドの民謡を聴くことができたのです。
そのうえショパンはマテウシ=ムジーカ(ムジーカは音楽という意味)と呼ばれる老人とも親しくなり、結婚式、洗礼式やパーティーにも連れて行ってもらいます。
ここでは地方の自然から生まれた芸術家たちから、真の芸術を学んだのです。
この体験はショパンに大きな収穫をもたらしました。

ショパンはポーランドの踊り、マズルカをもとに作曲する

この旅行から帰ったショパンは、有名な作曲家でワルシャワ音楽院の院長だったエルスナーの前で、自分の作曲したマズルカを弾きだします。
エルスナーは初め「だめだ!そんなことをしちゃいけない…」と言いながらも、二度三度繰り返し弾くようにというのです。

そして、エルスナーはピアノの椅子に座っているショパンを、驚きと尊敬、羨望と不安の入り混じった表情で眺めていたそうです。
エルスナーは、ここには何も付け加えることも、何もけずるものも無いことを理解しました。

ショパンはエルスナーに認められたことを知ると、幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、部屋の隅にかくれるようにしていました。
感受性の強いショパンらしい行動ですね。

ショパン動乱の青年期

ワルシャワ音楽院で和声学や、対位法、作曲法を学んだショパンはポーランドの民謡、舞曲などのメロディーやリズムをもとに作曲を始めます。
音楽院では従来通りの、型にはまった音楽を良しとしていたため、ショパンの才能を認めながらも先生や同級生たちには理解できず、ショパンを苦しめます。

ショパン革命家たちと知りい、友情を深める

この当時ポーランドはロシアの皇帝ニコライに支配されていました。迫害と搾取、飢えが荒れ狂っていたのです。
ポーランドの農民は飢えで次々と死んでいきました。
そして牢獄は自由のために戦った人たちであふれかえっていたそうです。そんな社会の中で、ショパンは貴族のための砂糖をまぶしたような音楽を軽蔑していました。

ある日街を歩いていると自由主義者たちに出会い、付き合うようになったショパンは、音楽以外に視野を広げていきます。
その友人たちに自作のマズルカやポロネーズ、激しい曲調の音楽を聴かせます。
マゾフシェ地方の歌い手や楽師たちの音楽がショパンの頭の中でうずまいています。迫害を受けた人たちの怒りがこめられているかのような激しい音楽でした。

「これこそがピアノの音に変えられた、最も純粋なロマン主義(古典派時代の理性尊重や合理主義に対する、感情、主観、想像力、等を重視したロマン派の芸術運動)の詩だ!」と、のちに革命の指導者になるモウリツィ・モフナツキは言うのでした。
ショパンの音楽を認める人が、初めてあらわれたのです。

ショパンの音楽にたびたび現れる激しさは、ポーランドを想う情熱だったのですね。

ショパン20歳になったときウイーンへと旅立つ

ポーランドに革命の兆しと不穏な空気を感じ取ったショパンのお父さんは、息子の安全と音楽家としての成功をのぞんで、ポーランドから離れるように説得します。
ウイーンに留学するように勧められたショパンは、留学することをとても喜んだのですが、一つだけ懸念がありました。
それは、ショパンの初恋です。
相手は音楽院で、声楽を専攻していた黒い髪に青い瞳の大変美しい、コンスタンチア・グワトコフスカという女性でした。

ショパンが留学のことを手放しで喜んでいないと感じたお父さんは、原因がコンスタンチアにあることを突き止めます。
ただ、自分の意志を絶対に曲げない息子の性格をよく知っていたので、コンスタンチアのことには触れず、パガニーニを例に出して「お前はパガニーニのような音楽家になりたかったのではないのか?」と問い詰めました。

パガニーニはその演奏が悪魔のようだといわれる天才ヴァイオリニストで、ヨーロッパ中に名声を轟かせていた人です。
ショパンもその演奏を聴いて熱に浮かされた一人でした。お父さんのねらいは的を射て、ショパンは留学の決心をしたのです。

1831年秋にショパンは友達のティトウスと二人でウイーンへと旅立ちます。
長旅で11月22日にようやくウイーンに辿り着いた二人は、まず部屋探しを始め、2日後には運よく心地の良い部屋を見つけることができました。
4階の窓からは美しいウイーンの街並みが見え、ゆっくり過ごせる時を満喫していました。

ポーランドに革命が勃発

しかし、12月2日の新聞に載った「ワルシャワで革命」報道に驚いた二人は、すぐに帰国の準備にかかります。
こんな時はやはり早いもの勝ちというのでしょうね。駅馬車の切符はすでに売り切れていました。
なすすべもなく留まっていると、お父さんからの手紙が。
「帰国しないこと!帰国は絶対に許さない!」との内容ばかりで、ワルシャワの様子には一言も触れていません。

ショパンは憤慨して友人のティトウスにその手紙を見せました。
ティトウスはショパンの帰国を思いとどまらせようと必死に考えます。
「お父さんのおっしゃる通りだよ。きみは作曲に取り組むこと、才能を伸ばすことが最大の権利であり義務なんだ! きみは兵隊としても将校としても余り役には立たないんじゃないかい」
この言葉にショパンは返す言葉もありません。

つぎの日ティトウスはワルシャワに向けて出発し、一人残ったショパンはオペラを観劇したり、演奏会に出かけたり、有名な音楽家たちと知り合いになったりと、一見平和で楽しく過ごしているように見えたようです。
しかし、ハプスブルグ家の支配するウイーンでは、革命を起こしているポーランド人はよく思われていません。
かつてウイーンで開いた演奏会では大成功をおさめたショパンといえども、演奏会を開くことは出来なかったのです。
それでもショパンはここでピアノ協奏曲第1番を作曲しています。

ワルシャワでの情勢はさらに悪化して、コレラが発生しオーストリアまで広がっていきました。
死への恐怖からウイーンの町は閉ざされ、一層暗い空気がただよいはじめました。

ショパンはお父さんの勧めに従ってウイーンを去り、新しい世界へ旅立つことを決意したのです。

このあと後編として「ショパンの生涯詳しく決定版」を読んでくださると嬉しいです。

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