今回はショパンの生涯、後編をわかりやすく解説します。
ウイーンでのショパンはポーランドで勃発した革命、コレラの流行などによる家族の安否が分からず、焦燥と傷心の日々を送っていました。
ハプスブルグ家の支配するウイーンの人たちは、ポーランドで起きた革命をよく思わず、ショパンに冷たい視線を投げかけます。
孤独と不安にかられながらショパンは1831年(21歳)にウイーンからパリへと旅立ちました。
旅の途中、ドイツのドレスデンに立ち寄りましたが、ドイツではウイーンとは違いショパンは芸術家として、尊敬と友情をもって迎え入れられたのです。
ドイツで心の安らぎを取り戻したショパンは、しばらく滞在することにしていましたが、9月9日に「ワルシャワが陥落した」というニュースを聞くことになります。
この知らせを聞いたショパンがどんなに落胆したか、そして何故祖国ポーランドに戻らなかったのか?は前編をご覧ください。
後編ではフランスでのショパンはどうなったかを紐解いていきますので、是非最後まで読んでくださいね。
ショパンの生涯パリでの苦難の日々
1831年の秋にパリについたショパンは、フランスでも革命のための混乱に落ち着かない日々を送っていました。
パリでは1830年に起きた7月革命によって、シャルル10世が退位しルイ・フィリップの王制に変わっています。
新しい王制は国民のための立憲君主制をうたっていました。
しかしそれは表向きのことで、生活は苦しく政治は裏切りに満ち満ちていたのです。
ショパンが到着したパリは、立憲君主制に裏切られた民衆が立ち上がり、憲兵と闘っていました。
初めは民衆が勝利していたかのようでしたが、憲兵や警察官の数はふくれあがり、ほどなく鎮圧されてしまったのです。
血にまみれたパリに翌年の1月にはコレラが再び息を吹き返し、お店やレストラン、喫茶店に人が来なくなり街中はひっそりとして貧しさに覆われていきました。
現代も2019年の12月に始まった新型コロナウイルスで、世界が混乱状態に陥りましたが、この当時も同じような状況だったのですね。
ポーランドでは革命が失敗に終わり、コレラの蔓延もひどかったため、亡命者が次々とパリに向けてやって来ました。
ショパンは祖国の人たちと交流を持とうとしたのですが、「革命前に逃げ出した」とされて、友達にはなれなかったのです。
混乱のパリでショパンには仕事も無く、持って出た資金も底をついてきて不安と孤独を募らせていきます。
ショパンの生涯パリで初めての演奏会を開く
春になってようやくショパンは演奏会を開くことになりました。
パリにはすでにリストやカルクブレンナーなどの有名なピアニストがたくさんいます。
ショパンは体調を崩すほどの緊張で迎えた演奏会でしたが、ピアノの前に座ると落ち着いて弾き始めました。
この演奏会は大成功をおさめ、ショパンの才能は口うるさい批評家たちにも認められることになります。
ただ、物事は簡単にはいかないことを、ショパンは思い知るのです。
ショパンの才能をねたんだ音楽家や、まだ駆け出しの音楽家にどれほどの価値があるのか、見当のつかない出版業者のやり口に、悩まされていました。
パリに来て1年がたっても、ショパンは演奏会を開くことも、弟子を取ることもままならず、生活は苦しいままです。
ショパンはこの年が終わるころにはアメリカ行きを考え始めていました。
ところが丁度そのころ、教えを請う生徒が現れたり、出版業者から作品出版の申し出があったり。
ようやく風向きが変わってきたようです。
友人を連れてきて生徒が増えていき、作品も次つぎ出版されたことによってショパンの知名度もあがっていきます。
12月には「マズルカ」が出版されました。
ショパンの生涯パリでの成功がもたらしたこと
やがてフランス以外の国々にもショパンの才能は知られていくようになりました。
「諸君、脱帽したまえ、これこそが天才だ!」とドイツの作曲家ロベルト・シューマンが音楽評論誌に書いたことは有名な話です。
そしてヨーロッパの国々でもショパンの名声は高くなっていきます。
ショパンがパリに住むようになって4年目までは、目を瞠るような成功の日々でした。
ヨーロッパでもっとも有名な音楽家の一人として貴族が招待したがり、ショパンのユーモア、たしなみ、魅力をもって女性たちの憧れともなっていきます。
ショパンの人気はうなぎのぼりとなり、莫大な収入を得るまでになったのです。
ショパンの生涯24歳でスランプに陥る
しかし、ショパンの成功はやがてショパンを苦しめていきます。
貴族や上流社会の人々が喜ぶ音楽は流れるような美しさで、軽やか、優美でなまめかしさのある音楽だったのです。
それらの曲はショパンがワルシャワ時代に書いたものや、ウイーンにいたときに作曲したものを手直ししたものばかりだったことに気づきます。
パリに出てきてからはほとんど「書けていない!」と。
自分が目指していた新しい音楽を書いていないことに愕然とします。
失意のどん底につき落とされたショパンは今までの社交の場から自身を遠ざけ、一人孤独な闘いを始めます。
成功に甘んじていた為についた怠け癖をふり払い、音楽への愛を取りもどそうと必死になって曲を書き続けます。
しかし簡単にはいかず、書いては破りを繰り返す日々でした。
書いてはピアノを弾き、また書いてはピアノを弾き、明け方になっていることがしばしばでした。
そうこうしている内に、少しづつ創作の意欲と成果があらわれ始めます。
ピアノの上には楽譜の山ができていました。
ショパンは喜びのあまり、ふたたび音楽家の仲間たちに会いに行くのです。
ショパンにもこんなに苦しい時期があったのですね。
たしかに初期の作品と中期以降の作品には大きな隔たりを感じることがあります。
ショパンの生涯マリア・ヴォジニスカとの恋のゆくえ
創作の意欲を取りもどしたかに見えたショパンですが、それも長くは続かなかったのです。
悩みぬいた末、ポーランドに帰ることを考えます。
しかし音楽家として有名になったショパンは公に帰ることができません。
帰国はロシア皇帝に仕え、宮廷楽師になることを意味するのです。
ショパンはお母さんの勧めに従って、ポーランドの女性と結婚し、静かな田舎で仕事に励むことを考えます。
そして1835年の6月、ショパンはドレスデンで昔なじみの、マリア・ヴォジニスカ嬢に会うことになりました。
かつては子供だったマリアは、知的で聡明な女性としてショパンの前に現れたのです。
二人はお互いに好意をいだき、とくにショパンはマリアと結婚したいと強く望むのでした。
愛を確かめ合う文通は二年間続き、ショパンはマリアとの結婚に確信を抱いていました。
しかしマリアの実家ヴォジニスキ伯爵家は大地主でもあり、お父さんはショパンが芸術家として名高いこと等に価値を認めてはいません。
ヴォジニスキ家は長い年月のあいだ、家系と領地の大きさで結婚相手を決めてきたのです。
マリアもショパンとの結婚を望んでいたのですが、当時の貴族の娘は、自分の意志で相手を決めることは出来なかったのです。
やがてマリアからの手紙も途絶えがちとなり、ショパンは結婚を諦めざるを得ませんでした。
ショパンの生涯とジョルジュ・サンド
マリアとの悲恋に打ちのめされていたショパンは、それでもパリに帰るとリスト達との交流を復活させるようになりました。
リストの家ではハイネといった詩人や画家のドラクロアなどの当代一流の芸術家が集まっています。
ショパンもそこに招かれ、ピアノを弾いたり芸術談義に加わったりしていました。
ある日その集まりにジョルジュ・サンドという男装の女流作家があらわれます。
彼女を紹介されたショパンは、初め不愉快に思い「なんて虫の好かないやつだろう…なぜ男の格好をしているのだ」と居合わせた友人にささやいたそうです。
ジョルジュ・サンドの本名はオーロール・デュパンですが、当時の社会(男尊女卑)に対する批判を込めて、男性の名前を名乗り、身なりもズボンをはいて男装していました。
6歳年上のサンドは当時ショパンよりも有名な女流作家だったのです。
1837年10月のショパンの日記には「三度あの人に会った。ピアノを弾いている間、目の中まで深く見つめるのだった…私の心は奪われてしまった…」などと記されている。
サンドの伝記によると、「彼女は特に美人という訳ではないが、その問いかけるような瞳にみつめられると、誰でも惹きつけられた」とありました。
こうしてサンドとショパンの交流が始まったのです。
サンドは母親のような愛情をショパンに注いだと言われています。
彼女はショパンの音楽を理解し霊感を与え、不安定なショパンの心を慰めることで、ショパンの音楽に豊かさをもたらしたようです。
ショパンは夏になるとノアーンの農村にあるサンドの領地で過ごすうちに、ポーランドの田舎で体験したふるさとの音楽が蘇ってくるのを感じました。
想像力がおとろえたかつての日々を忘れることができたのです。
ショパの生涯ジョルジュ・サンドとスペインのマヨルカ島へ
ショパンは25歳の頃から結核のような症状(血痰、咳)に悩まされていました。
病状は良くなったり悪くなったりを繰り返し、もともと体の弱かったショパンの体力を奪っていたのです。
そんなショパンを気遣って、サンドは暖かい土地での療養を考えます。
「温暖なマヨルカ島はショパンの身体に良い」ということで、マヨルカ島に行くことになりました。
行ってみるとショパンもサンドも都会生活との違いに驚きます。
景色は素晴らしく「トルコ玉のような空、瑠璃(ルリ)のような海、エメラルドのような山々、天国のような空気…」などとショパンは友達への手紙に書いています。
ただ、食べ物は口に合わず、粗末な家、固いベッドなど鋭敏なショパンにとっては耐え難いものだったようです。
やがて冬が訪れ雨の降りしきる日が続くようになると、ショパンの結核は再発したようです。
別荘の家主は結核を恐れ、立ち退きを要求してきたため、やむなく荒れ果てた寺院に住むことになりました。
冬の寒さはショパンの体をむしばんでいき、暗い雨の日などは陰鬱な気分で一人ピアノに向かっています。
この時に作曲した「前奏曲」の中の有名な「雨だれ」は、寺院の屋根に落ちる雨の音が、ショパンの中に幻想的な音楽として響いたのでしょう。
ショパン生涯1839年ノアーンでポロネーズなどの数々の名曲を作曲
1年がたちマヨルカ島での療養生活は、医師の許可も出て終わることになりました。
マルセーユを通って5月末にノアーンにある、サンドの邸宅に落ち着きます。
ノアーンは農村地帯で、夕方になると牧童たちの歌声が聞こえてきます。
ショパンはその歌声から、故郷のマゾフシェ地方で聴いた音楽を想いだすのです。
ノアーンの静かな環境で健康も回復し、田園地方ののどかな歌声にショパンの心も癒され、作曲に専念することができました。
この時期にはスケルツォ第3番作品39、マズルカ作品41、ソナタ第2番作品39を完成させます。
ソナタ第2番は第3楽章の葬送行進曲がとくに有名です。
この年から1842年までの3年間に、ショパンの代表的な傑作が数々生まれたのです。
この時期にショパンは大切な師ヴォイチェフ・ブヌイと親友のマトゥシニスキを失い、悲しみに打ちひしがれていました。
サンドはそんなショパンを慰めるために、画家で親友のドラクロアや詩人のヴィトヴィツキなどを招きます。
大画伯ドラクロアは音楽愛好家でもあり、ショパンとバッハやモーツアルトの素晴らしさを話し合って、意気投合していたのです。
平静を取り戻したショパンは再び作曲に取りかかります。
ショパンの生涯1842年雄大な作品舟歌に取り組む
32歳になったショパンは、古典的な大きな形式をもつ作品に取りかろうとしていました。
バラード第4番作品52、ポロネーズ作品53(英雄)、スケルツォ第4番作品54を完成させました。
これらの作品はショパンの初期の作品にある、若々しい無邪気さは無く、ショパンの内面を見つめるようなフレーズと、古典的形式を感じさせる創作物として大きな姿を現すようになりました。
また33歳のころにはバルカローレ(舟歌)作品60、幻想ポロネーズ作品61などの傑作をうみだしています。
ショパンはようやく、自分が求める音楽を書ける喜びを味わったのです。
1小節2小節を書いては、先に進めなかった10年前の苦しみを、思い出さなくても良くなったのでした。
ショパンの生涯晩年から最期まで、心臓はポーランドの墓地へ
しかしこのころからショパンの健康状態は悪化していきました。
その上、サンドの二人の子供が原因とみられているトラブルに見舞われます。
このトラブルがもととなって、1847年ショパン37歳のとき、サンドとの仲も破局を迎え、ますます身体は弱っていきました。
「サンドの看護と配慮が無かったら、ショパンの中期以降の傑作は生まれなかっただろう」といわれるほど、サンドの力は大きかったのですね。
それでもショパンは1848年2月パリで最後の演奏会を開きました。
一説によると、ショパンは体調不良で会場には担架で運ばれたとか。
しかしピアノの前に座ると素晴らしい演奏をくり広げ、拍手喝さいの大成功をおさめたのです。
この2月にフランスでは革命が勃発し、3月にはベルリン、ウイーンでも革命が起きます。
ショパンの生きた時代は激しい動乱の時期だったのですね。
中期以降のショパンの音楽に聴かれる激しさは、この時代を映してもいるのでしょう。
1849年39歳の6月に病状が悪化し、10月17日ついに帰らぬ人となってしまいました。
葬儀には知名人のほとんどの人、三千人もの一般の人々が参列し、ショパンの葬送行進曲ではじめられたのです。
遺骸はペール・ラシューズの墓地に運ばれ、遺骨には友人たちから送られたポーランドの土が撒かれました。
ショパンの遺言どおり、心臓は黄金の壺に納められて、ワルシャワの聖十字架協会に安置されています。
ショパンはお父さんの国フランスとお母さんの国ポーランドで、安らかな眠りについたのですね。

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