クラシック音楽の歴史において、バッハ、ベートーヴェンと並び「ドイツの3大B」と称されるヨハネス・ブラームス(1833〜1897)。
ブラームスの音楽を聴くと、重厚で、厳格で、どこか秋の夕暮れのような寂しさと温かさを感じませんか?
『ブラームスの子守唄』の優しいメロディや、20年以上の歳月をかけて完成させた『交響曲第1番』の圧倒的なスケール感は、世界中で愛されています。
しかし、「じゃあ、ブラームスってどんな人だったの?」と聞かれると、あの立派な髭を蓄えた、気難しそうなポートレートくらいしか思い浮かばない方も多いのではないでしょうか。
実はブラームス、音楽の完璧さとは裏腹に、プライベートではおそろしく不器用で、シャイで、毒舌で、だけど誰よりも情に厚い「ギャップの塊」のような人だったのです。
この記事では、『子守唄』や『交響曲第1番』の解説だけでは見えてこない、ブラームスの「素顔」を、人間関係や知られざるエピソードから徹底的に紐解いていきます。
最期まで読むとブラームスに親近感がわいて大好きになるかもしれませんよ。
ブラームスの生い立ち:夜の街のピアノ弾きから始まった苦難の少年時代
ブラームスの音楽にある「どこか影のある切なさ」や「泥臭いほどの力強さ」は、彼の過酷な少年時代にルーツがあります。
ブラームスは1833年5月7日、ドイツのハンブルクで誕生しました。
父親は小劇場のコントラバス奏者、母親は17歳も年上の裁縫師という、決して裕福とは言えない家庭です。
家計は常に火の車でした。
ブラームスの少年時代には食事も満足に摂れない日があるほど、一家の暮らしは困窮していたと言われています。
幼い頃から驚異的な音楽の才能を見せていたブラームスですが、家計を支えるために、わずか10歳そこそこで「夜の街」で働かなければなりませんでした。
ブラームス:少年時代は町の居酒屋や歓楽街でのピアノ演奏だった
少年ブラームスがピアノを弾いたのは、きらびやかなコンサートホールや、お行儀の良い貴族のサロンではありませんでした。
それは、世界中から荒くれ者の船乗りが集まる港町の酒場や、歓楽街の薄暗い店だったのです。
夜通しピアノを弾き、酔客の騒ぎに巻き込まれ、時には大人たちの生々しい欲望が渦巻く光景を目の当たりにし、大人の世界の光と闇をあまりにも早くに知ることになります。
タバコの煙が充満する店内で、眠い目をこすりながら鍵盤を叩き続けた経験は、彼の心に生涯消えない傷(トラウマ)を残したと言われています。
ブラームスは後に、女性に対して極端にシャイになり、愛しているのに結婚に踏み切れないという複雑な恋愛観を持つようになりますが、その原因はこの少年時代にあると指摘する研究者も少なくありません。
しかし同時に、この酒場での演奏経験は、ブラームスに民謡やハンガリーのジプシー(ロマ)音楽といった「大衆の音楽」を吸収させることになったのです。
これが、後に彼の代表作となる『ハンガリー舞曲』などの大ヒット作を生み出す原動力となったとも言われています。
イケメンブラームス:トレードマークの「髭」と「毒舌」に隠された、超シャイな素顔
みなさんがよく知るブラームスの姿は、丸々と太った体型に、顔半分を覆うような立派な白髭を蓄えた晩年の姿でしょう。
しかし、彼があの髭を生やし始めたのは40代後半になってからのこと。
若い頃のブラームスは、線の細い端正な顔立ちで、北欧系の綺麗な金髪、そして澄んだ青い目をしていたそうです。
ブラームスがある高名な音楽家を訪ねたときに、その音楽家は友人に「眉目秀麗な青年が来た」と伝えたとか。
驚くほどの「美少年」「美青年」だったのです。
今でもネットで検索すると「イケメンブラームス」などと出てきます(^^♪
髭は「照れ隠し」の盾だった?
声も高めで、実年齢よりもかなり若く見られることがコンプレックスでした。
また、極度のシャイだったブラームスは、他人が自分をどう見ているかが気になって仕方がなかったのです。
そこで、ある時期から髭を伸ばしわざと太り、愛想の悪い「頑固親父」のキャラクターを演じるようになりました。
つまり、あの立派な髭は、傷つきやすい繊細な内面を隠すための「鎧(よろい)」だったのです。
ブラームは後に友人へ「髭を生やすと、顔を隠せるから楽なんだ」と冗談めかして語っていますが、これは本音だったのかもしれませんね。
有名な「ブラームス的毒舌」のエピソード
ブラームのシャイさは、時に強烈な「毒舌」となって周囲に炸裂しました。
あるパーティーから帰る際、ブラームスは集まった人々に向かってこう言い放ったと言われています。
「もし今日、この席で私が傷つけるのを忘れた方がいらっしゃいましたら、謹んでお詫び申し上げます」
ひねくれ方がお見事と言うほかありませんが、これも「どう別れの挨拶をしていいか分からない」「照れくさい」という不器用さの裏返しだったのですね。
また、あるアマチュア作曲家が「私の新曲はどうですか?」と熱心に楽譜を持ってきた際、ブラームスはその音楽そのものではなく、楽譜が書かれた紙の質を見てこう言いました。
「うむ、この五線紙のメーカーは素晴らしい。どこで買ったのかね?」 面と向かって「つまらない」と言えない(あるいは、言うのが面倒な)彼なりの、痛烈な皮肉でした。
さらに、ある席で上質なワインを振る舞われ、主人が「これは我が家の『ブラームス』です(最高級品という意味)」と自慢したところ、ブラームスは一口飲んでこう言いました。
「なるほど。では、お宅の『ベートーヴェン』を持ってきてもらえますか?」 褒められたら素直に喜べばいいのに、つい天の邪鬼(あまのじゃく)な言葉が出てしまう。
これがブラームスだったのです。
ブラームス生涯で最も愛した女性、クララ・シューマンとの「永遠の距離」とは?
ブラームスの人生を語る上で、絶対に避けて通れないのが、生涯の恩師であるロベルト・シューマンの妻であり、当時ヨーロッパ最高峰のピアニストだったクララ・シューマンとの関係です。
20歳の無名だったブラームスがシューマン夫妻の家を訪ね、自分の曲をピアノで弾いた時、ロベルトはその才能を激賞し、自身が主宰する音楽雑誌で「天才が現れた!時代を導く者が現れた!」と世界に紹介しました。
これによってブラームスは音楽界のスターとなったのです。
ブラームスにとって、シューマン夫妻は人生の恩人であり、神のような存在でした。
しかし、運命は残酷でした。
精神を病んだロベルトはライン川に身を投げ、一命は取り留めたものの、精神病院に収容されてしまいます。
残されたのは、身重のクララと6人の子供たち。
ここでブラームスは、大好きな恩師の家族を支えるために立ち上がります。
ブラームスとクララ:手紙が語るふたりの距離
ブラームスはシューマン家に住み込み、子供たちの面倒を見、家計を助け、絶望するクララを必死に支えました。
その過程で、14歳年上のクララに対して、単なる「恩師の妻」を超えた、深い愛を抱くようになるのは自然な流れだったのでしょう。
この時期、2人が交わした手紙には、その燃え上がるような感情が生々しく残されています。
当初は「親愛なる夫人へ」と他人行儀だったブラームスの手紙は、次第に熱を帯びていきます。
「僕の最愛のクララ。あなたをどれほど愛しているか、言葉では言い表せません。あなたを『お前(Du)』と呼びたいくらいです。あなたを思い出すだけで、僕は胸がいっぱいになり、何も手につかなくなってしまいます」
クララもまた、若く才能溢れるブラームスの献身に救われ、彼を深く愛するようになりました。
しかし、2人の関係が一線を越えることはありませんでした。
それは、入院中のロベルトへの背信行為になるという倫理観と、お互いへの強い尊敬の念があったからです。
ブラームス:クララとなぜ結婚しなかったの?
1856年にロベルトが亡くなった後、周囲は「これで2人はようやく結ばれるのだろうか」と固唾を呑んで見守りました。
しかし、ブラームスはなぜかクララのもとを一度離れ、距離を置く道を選びます。
ブラームスがクララと結婚しなかった(できなかった)理由は、今もクラシック音楽界最大の謎の一つです。
- 恩師ロベルトへの義理立てと罪悪感
- 芸術家として独立するためには「孤独」であるべきという頑なな信念
- 少年時代のトラウマによる「家庭を持つこと」への恐怖
様々な理由が推測されていますが、確かなのは、2人は生涯にわたり、プラトニックな関係を維持しつつ「魂の戦友」として互いをリスペクトし続けたということです。
現代では想像を超えたお話ではないでしょうか?
ブラームスは、新作を作ると必ず最初にクララに譜面を送り、彼女の意見を仰ぎました。
クララが「素晴らしい」と言わなければ、彼はその曲に自信を持てなかったのです。
ブラームスは才能もあり、イケメンであったことから慕ってくる女性も多かったとか。
クララ以外の女性と婚約しかけたこともあったのですが、結局「私は独身でいなければならない」と破棄しています。
晩年、クララが脳卒中で倒れたという報せを聞いたブラームスは、狂ったように列車を乗り継ぎ、彼女のもとへ駆けつけました。
しかし、慌てて逆方向の列車に乗ってしまうなど不運が重なり、到着した時にはクララは帰らぬ人となっていました。
よほど気が動転していたのでしょうね。
葬儀の席で、ブラームスは人目をはばからず号泣したといいます。
そのショックでブラームスは心身ともに衰弱し、クララの死からわずか11ヶ月後、彼女を追うようにしてこの世を去りました。
ブラームスの生涯は、常にクララという北極星を中心に回っていたのですね。
ブラームス:才能を見抜き、支え続けた「ドヴォルザーク」との絆
ブラームスは、自分を高めてくれた恩師シューマンへの恩返しを、次の世代の才能を育てることで果たしました。
その最も美しい例が、チェコの大作曲家アントニン・ドヴォルザークとの関係です。
ブラームス:貧しい無名時代のドヴォルザークを救う
当時、ドヴォルザークはチェコのプラハで貧しい生活を送りながら作曲を続けていましたが、国際的な知名度は全く無かったのです。
そこでドヴォルザークはオーストリア政府の奨学金に応募します。
その審査員を務めていたのが、すでに大家としての地位を確立していたブラームスでした。
ブラームスは、送られてきた交響曲などの楽譜を一目見て、そのあふれんばかりのメロディの才能、民族的なエネルギーに衝撃を受けました。
「これほどの才能を埋もれさせてはならない」と確信したブラームスは、すぐに最高額の奨学金の授与を決定します。
それだけでなく、ブラームスは自身の信頼する有力な音楽出版社「ジムロック社」にドヴォルザークを強く推薦しました。
「彼の作品は本当に素晴らしい。出版すれば必ず売れる。私が保証する」 この推薦によって出版された『スラヴ舞曲集』は大ヒットを記録し、ドヴォルザークは一躍、世界的な作曲家の仲間入りを果たすことになったのです。
ブラームスはドヴォルザークに「僕の財産を君にあげるから、ウィーンに来い」と
ドヴォルザークはブラームスを神のように慕い、ブラームスもまた、ドヴォルザークの純朴な人柄と才能を我が子のように愛しました。
ある時、ブラームスはドヴォルザークに「プラハなんて田舎にいないで、音楽の中心地であるウィーンに出てきなさい」と勧めました。
しかしドヴォルザークは「私には大家族がいますし、ウィーンに引っ越すだけのお金がありません」と断ろうとします。
するとブラームスは、大真面目な顔でこう言ったのです。 「お金のことなら何も心配いらない。私には子供もいないし、使い切れないほどの財産がある。君がウィーンに来てくれるなら、私の財産はすべて君に譲るよ」
ドヴォルザークはこの破格の申し出に涙を流して感激したそうです。
でも結局、故郷への愛からプラハに留まりましたが…。
後にドヴォルザークがアメリカに渡り、破格の報酬で音楽院の院長に就任した際も、ブラームスは「彼が遠くに行ってしまうのは寂しい」と本気で寂しがっていたそうです。
毒舌家で知られたブラームスですが、本物の才能に対しては、これほどまでに無私で、惜しみない愛を注ぐ人だったのです。
ブラームス:お金は寄付、服はヨレヨレ、でも子供には超優しい人
気難しくて毒舌、恋愛にも臆病。
こう聞くと、なんだか近寄りがたい変人のようですが、ブラームスの本当の魅力は、その「不器用な優しさ」にありました。
ブラームス、匿名で巨額の寄付を続ける
クラシックの作曲家といえば「生前は貧乏で、死後に評価された」というイメージが強いですが、ブラームスは生前からめちゃくちゃお金持ちでした。
中年以降のブラームスは、現在の価値で言えば数十億円レベルの資産を持つ大富豪だったのです。
ブラームスを大富豪にしたキッカケの曲が『ハンガリー舞曲集』です。
20代の頃、ハンガリー出身のヴァイオリニスト、レメーニと演奏旅行をしたブラームスは、移動中に聴いた民族音楽(ロマ・ジプシーの音楽)の独特なリズムと哀愁を帯びたメロディに魅了されました。
これらをピアノ連弾用に編曲して出版したところ、これが当時のヨーロッパで爆発的なヒットを記録します。
しかし、莫大な印税収入があったブラームスの暮らしは驚くほど質素でした。
- いつも同じような、ツギハギだらけのヨレヨレの服を着ている。
- ズボンの丈が長すぎると、自分でハサミでジョキジョキ切ってそのまま穿く(当然、裾はボロボロ)。
- 安全ピンで服の破れた部分を留めていることもしょっちゅう。
- 高級レストランではなく、ウィーンの庶民的な居酒屋(「赤いハリネズミ」という店が定宿でした)で安ビールとシンプルな肉料理を食べる。
ヨレヨレの服でコンサートに行ったりするので、周囲の人(シューマン家の人々や友人)をハラハラさせていたという逸話も残っていますが、ブラームスだからと大目に見ていたのでしょうね。
では、稼いだ大金はどこへ行ったのでしょうか?
ブラームスは、貧しい音楽家や、経済的に困窮している友人、親戚たちに、「匿名」で大金を送り続けていたのです。
自分の家族は勿論のこと、恩師シューマンの子供たちが成人した後も、それとなく資金援助をしていました。
ブラームス自身が若い頃に貧しさに苦しんだからこそ、人の貧しさを見過ごせなかったのでしょう。
しかも、それを絶対に自慢せず、相手に気まずい思いをさせないよう、出版社などを通して間接的に渡すという徹底ぶりでした。
ブラームスにとって、お金は「自分のために使うもの」ではなく、「才能ある人や困っている人を救うための道具」でした。
不器用で、なかなか人に伝えらえない愛にあふれた、温かい人だったのですね。
ブラームスは子供たちにとって「あめ玉おじさん」だった?
大人に対しては、照れ隠しで毒舌ばかり吐いていたブラームスですが、純真な子供たちの前では完全に「ただの優しいおじさん」でした。
ウィーンの街をヨレヨレの服で散歩していると、近所の子供たちが「ブラームスさんだ!」と駆け寄ってきます。
ブラームスはいつもポケットの中に、たくさんの飴やチョコレートを忍ばせており、子供たちに笑顔で配っていました。
子供たちと一緒に地べたに四つん這いになって遊び、時にはおんぶをして街を歩く。
その姿には、あの気難しそうな大作曲家の影は微塵もありませんでした。
子供たちはブラームスを、偉大な作曲家ではなく「美味しいお菓子をくれる、ちょっと変わった優しいおじさん」として大好きだったのです。
ブラームスの趣味は?大の旅行好き、コーヒーへの異常なこだわり
ブラームスの日常を知ると、さらに身近に感じることが出来るでしょう。
イタリアへの逃避行
ブラームスはウィーンを拠点に活動していましたが、都会の人間関係や音楽界の派閥争いに息苦しくなると、決まってイタリアへの旅行に出かけました。
生涯で10回以上もイタリアを訪れており、美術館巡りが好きで、感動する絵画の前で長い間立ちすくんでいたこともあったそうです。
また現地の明るい太陽、美味しいワイン、そして気取らないラテン系の人々に触れることで、日頃のストレスを癒してもいたようです。
ブラームスの音楽はドイツ的で重厚ですが、時折見せるイタリア風の明るいメロディや、光が差し込むような展開は、この旅の賜物ではないでしょうか。
朝のルーティンは「最強のコーヒー」
ブラームスは超がつくほどのコーヒー党でした。 毎朝、まだ夜が明けない午前5時頃に起床すると、自分でコーヒー豆を厳選して挽き、お湯を沸かして特製のコーヒーを淹れるのが日課でした。
ブラームスの淹れるコーヒーは、現在のエスプレッソ並みに「ものすごく濃くて苦い」ものだったそうで、友人たちは彼が淹れたコーヒーを飲むと目が飛び出すほど驚いたと言われています。
しかし、ブラームスはこの超濃厚コーヒーを飲みながら、頭をフル回転させ、あの緻密で完璧な楽譜を書いていたのです。
ちなみにベートーヴェンにもコーヒーには、超のつくほどの拘りがあったという話があります。
毎日きっちり60粒の豆を数えてコーヒーを淹れていたそうです。
こんなところにもベートーヴェンとの共通点があったとは!?
ブラームスの人間味が詰まった!絶対に聴きたい4つの代表曲
「気難しくて不器用、でも実は超優しい」というブラームスの素顔を知ったところで、彼が残した珠玉の名曲を聴いてみましょう。
彼の人生を知ってから聴くと、曲の聴こえ方が変わるはずです!
『ブラームスの子守唄』〜友人の赤ちゃんへ贈った、世界一優しいメロディ〜
誰もが一度は耳にしたことがある、世界で最も有名な子守唄です。
この子守唄はブラームスがかつて片思いをしていた女性(後に別の男性と結婚して子供が生まれた友人)に、「出産のお祝い」としてプレゼントしたものでした。
「本当は自分が父親になりたかったかもしれない…」というちょっぴり切ない(ひねくれた?)気持ちを胸に秘めつつも、赤ちゃんの幸せを心から願って作られた、彼の「不器用な優しさ」が100%詰まった名曲です。
ブラームス『ハンガリー舞曲 第5番』〜ヨレヨレの服を大富豪に変えた大ヒット曲〜
ブラームスの「ハンガリー舞曲」はテレビやCMでもおなじみの、テンポが速くなったり遅くなったりする情熱的で楽しい曲ですね。
20代の頃、旅の途中で出会ったジプシー(ロマ)たちの音楽にブラームスが魅了され、ピアノ用にアレンジしたことで生まれました。
これが当時のヨーロッパで爆発的な大ヒットを記録!
ブラームスは、この曲の莫大な印税によって一躍トップクラスの大富豪になりました。彼の人生を大きく変えた、エネルギー全開の一曲です。
ブラームス『交響曲第1番』〜21年間の苦悩と、クララへの想いが大爆発〜
ブラームスの『交響曲第1番』はクラシック音楽界の最高傑作の一つと言われる、重厚でドラマチックな交響曲です。
「偉大な先輩ベートーヴェンの影」と「恩師シューマンへの恩義」、そして「クララへの叶わぬ恋」に悩み続けたブラームスは、なんとこの曲を完成させるまでに21年もの歳月を費やしました。
諦めずにこだわり抜き、43歳でようやく完成させたこの曲のラストには、暗闇から眩しい光が差し込むような、圧倒的な感動が待っています。
ブラームスの「頑固で真面目な芸術家魂」がそのまま音になったような作品です。
ブラームス『ヴァイオリン協奏曲』〜大親友への愛が重すぎて…?不器用な友情から生まれた傑作〜
ベートーヴェン、メンデルスゾーンの作品と並び、「世界3大ヴァイオリン協奏曲」の一つと称される最高傑作です。
この曲は、ブラームスの大親友であり、当時最高峰の天才ヴァイオリニストだったヨーゼフ・ヨアヒムのために書かれました。
ブラームスはヨアヒムの演奏技術を誰よりも信頼していたため、「なぁヨアヒム、このフレーズってヴァイオリンで弾けるかな?」と何度も楽譜を送っては、熱心にアドバイスを求めていました。
しかし、ブラームスのヨアヒムへのリスペクト(とこだわり)が強すぎた結果、完成したのはヴァイオリンの限界に挑むような超絶技巧だらけの超難曲!
あまりの難しさに、当時の他の演奏家からは「これはヴァイオリン『に反する』協奏曲だ(ヴァイオリンで弾く曲じゃない!)」と苦情が出るほどでした。
それでも大親友のヨアヒムは、ブラームスの熱い想いに応えて見事にこの曲を初演し、大成功へと導きます。
ブラームスの「お気に入りの人への、ちょっと重すぎるほどの情熱」が、結果として音楽史に残る偉大な名曲を生み出したのです。
ブラームスの音楽を深く味わい楽しもう
ヨハネス・ブラームスという人物を表すなら、「不器用すぎるロマンチスト」です。
- 貧しい少年時代を生き抜き、泥臭い強さを得た人。
- 傷つくのが怖くて、髭と毒舌で自分を守っていたシャイな人。
- 生涯ただ一人の女性(クララ)を、不器用なまでに愛し続けた人。
- ドヴォルザークのような後進の才能を、我が子のように無私に愛した人。
- 自分のことは後回し、他人のためには大金を差し出す人。
ブラームスが遺した音楽に、どこか「人の体温」や「包み込むような優しさ」、そして「言葉にできない切なさ」を感じるのは何故か、ブラームスの人となりを知るとよく分かります。
ブラームスの曲を聴く時は、ぜひ、あのヨレヨレの服を着て、ポケットに飴玉を詰め込み、クララの手紙を大切そうに抱えた、愛すべき頑固親父の姿を思い浮かべてみてください。
きっと、それまでとは全く違う、人間の温かみに満ちた音が聴こえてくると思います。
ブラームスについてはもっとお話ししたいことが沢山あるので、またの機会を楽しみにしていてくださいね。
ブラームスの子守唄はこちら

ブラームス交響曲第1番はこちら

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はこちら

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