ロベルト・シューマン(Robert Schumannー1810~1856)の傑作の中でも、初期のピアノ曲集『幻想小曲集(Fantasiestücke)』作品12の第2曲「飛翔(Aufschwung)」は、ひときわ強い印象の名曲です。
わずか3〜4分程度で演奏される短い楽曲の中に、シューマンが抱えていた引き裂かれそうなほどの情熱、葛藤、そして未来への渇望がすべて凝縮されているのです。
今回は、この「飛翔」の魅力、そこに秘められた若きシューマンの物語、そして音楽的な聴きどころについて、徹底的に解説します。
クラシック音楽のファンはもちろん、これからこの曲を聴く人、あるいはピアノで挑戦しようとしている人にとって、作品の世界をより深く理解するためのガイドとなれば嬉しいです。
ぜひ、最後まで読んでくださいね。
シューマン 『幻想小曲集』作品12と『飛翔』の誕生
若きシューマンの焦燥とクララへの愛
「飛翔」が作曲された20代後半から30代にかけてのシューマンは、人生の大きな転換期であり、同時に最も激しい精神的苦痛を味わっていた時期でもありました。
ピアニストを目指していたシューマンは、のちに妻となるクララの父、フリードリヒ・ヴィークの弟子として、ヴィーク家に住み込むようになります。
しかし、シューマンは機械を使って無理な練習をし、右手の指を痛めてしまいます。
そして演奏家への道を諦めざるを得なくなったとされています。
絶望の淵に立たされたシューマンは作曲家として、そして音楽評論家として生きる道を選んだのです。
そんなシューマンの心の支えであり、同時に苦悩の源でもあったのが、のちに妻となるクララ・ヴィーク(Clara Wieck)の存在です。
シューマンはクララを深く愛していました。
クララは当時、ヨーロッパ中を演奏旅行する天才少女ピアニストとして、その名を轟かせていたのです。
クララの父親であり、シューマンのピアノの師でもあったフリードリヒ・ヴィークは、クララのピアニストとしての成功をのぞんでいました。
フリードリヒ・ヴィークはその願いを妨害するものとしてシューマンを憎むようになり、二人の交際に猛反対します。
シューマンとクララは父親によって完全に引き裂かれ、手紙のやり取りさえ自由にできない状況にありました。
そしてこのゴタゴタのあった1837年、シューマン27歳の時に『幻想小曲集』が作曲されたのです。
「君に会えない苦しみが、僕に音楽を書かせる。僕の音楽はすべて、君へのラブレターなのだ」
シューマンはクララに宛てた手紙に書いていますが、まさにこの時期の作品にはクララへの狂おしいほどの愛と、それを阻む現実への怒り、そしてそれを乗り越えようとする強い意志がみなぎっています。
シューマンE.T.A.ホフマンの文学世界との融合
『幻想小曲集』というタイトルは、ドイツ・ロマン派の作家E.T.A.ホフマンの『カロ風幻想小曲集』からインスピレーションを得てつけられたものです。
シューマンは本屋と出版業をしていたお父さんの影響で幼い時から文学に才能を発揮していました。
そして音楽と文学の融合を生涯のテーマとしていたのです。
全8曲からなるこの曲集は、それぞれに文学的・絵画的なタイトルが付けられています。
1.夕方に(Des Abends)
2.飛翔(Aufschwung)
3.なぜに(Warum?)
4.気まぐれ(Grillen)
5.夜に(In der Nacht)
6.寓話(Fabel)
7.夢の縺れ(Traumes Wirren)
8.歌の終わり(Ende vom Lied)
第1曲「夕方に」の静けさと微睡(まどろ)みから一転して、第2曲の「飛翔」では爆発的なエネルギーが解き放たれます。
この劇的なコントラストこそが、ロマン派音楽の真骨頂なのです。
シューマンの「二面性」フロレスタンとオイゼビウス
シューマンの音楽を知る上で絶対に欠かせないのが、彼自身が創り出した「二つの架空の人格」です。
シューマンは、自らが創刊した『新音楽時報』という雑誌の批評記事や、自身の作品の中で、自分の中に潜む二面性を以下の二人のキャラクターに擬人化して表現しました。
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フロレスタン(Florestan): 情熱的で、直感的、攻撃的、そして行動力に溢れた熱血漢。
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オイゼビウス(Eusebius): 内省的で、夢見がち、優しく、思索にふける青年。
この双子の精神は、シューマンの脳内で常に会話を交わし、競い合っていました。
「飛翔」は、まさにフロレスタンの情熱が完全に主導権を握った瞬間を描いています。
しかし、単に激しいだけではなく、曲の途中でふと顔を覗かせるオイゼビウスの繊細な優しさとの対比があるからこそ、この曲は単なる「勢い任せの曲」ではなく、深い陰影を持つ名曲となっているのです。
シューマン『飛翔(Aufschwung)』の音楽的構造
原題の「Aufschwung」には、「飛び立つこと」「飛躍」「高揚」、さらには「精神のたかぶり」という意味があります。
重力に逆らって大空へと力強く羽ばたき、雲を突き抜けていくようなダイナミズムが、ヘ短調(F minor)という情熱的かつ悲劇的な調性の中で展開されます。
この曲は、クラシックの伝統的な形式であるロンド形式(A – B – A – C – A – B – A)、あるいはそれを変形した構成をとっています。それぞれのセクションがどのような表情を持っているのか、細かく見ていきましょう。
『飛翔』 衝撃的な冒頭(Aセクション):主調(ヘ短調)
冒頭、予兆もなく、烈火のごとき勢いで主題が飛び出します。
このテーマの特徴は、「シンコペーション(拍のズレ)」と「アウフタクト(弱起)」の多用です。拍子の頭(1拍目)が強調されるのではなく、裏拍に強いアクセントが来るため、聴き手は常に前へ前へと突き動かされるような、あるいは宙に浮き上がるような感覚(まさに飛翔)を感じます。
右手の力強い和音の跳躍と、左手のうねるようなアルペジオが絡み合い、地を蹴って大空へと飛び立つ圧倒的なエネルギーが表現されます。
『飛翔』 束の間の安らぎ(Bセクション):変ロ長調
激しい主部が一段落すると、急に視界が開け、変ロ長調の穏やかな旋律が現れます。
ここはまさに「オイゼビウス」の領域です。先ほどの激しさが嘘のように、甘く、語りかけるようなメロディが流れます。
しかし、ここでもシューマン特有の「3連符と2拍子のポリリズム(複リズム)」が使われています。
右手と左手で刻むリズムが異なるため、穏やかさの中にもどこか落ち着かない、心がそわそわとして変拍子のように揺れ動く感覚が残されています。
これは、クララへの想いに胸を焦がすシューマンの「焦燥感」の表れとも言えるのではないでしょうか。
『飛翔』 再びの嵐、そして内省(Cセクション):変ロ長調〜変ホ長調
再びAセクションの激しいテーマが戻った後、曲は最もドラマチックな「Cセクション」へと突入します。
ここでは、細切れのフレーズが、スタッカートとレガートを激しく行き来しながら展開されます。まるで、大空に飛び立った鳥が、乱気流に巻き込まれながらも、必死に翼を羽ばたかせて上昇しようとしているかのようです。
特筆すべきは、ベース音(左手の一番低い音)が半音ずつ上昇していく箇所です。音楽理論的には「ドミナントへの向性」を高める手法ですが、これが聴き手の心理に「緊迫感」と「圧倒的な高揚感」をもたらします。最高到達点に達したとき、音楽は歓喜とも狂気ともとれる輝きを放ちます。
『飛翔』 終わりなき飛翔(コーダ)
曲は何度も主部(A)を繰り返し、最後に再びあの強烈なテーマが戻ってきます。
一般的な楽曲であれば、最後は派手な和音で「ジャン!」と締めくくられることが多いですが、この「飛翔」の結末は非常にユニークです。
激しいクレッシェンドの果てに、最後は音が付け足されるのではなく、冒頭のテーマの断片がそのまま減衰していくように、突如として幕を閉じます。
これは「物語が終わった」のではなく、「今もなお、どこまでも高く飛び続けている」、あるいは「果てしない理想に向かって走り去っていった」という、ロマン派特有の余韻を残す手法です。
聴き手は、音楽が止まった後も、耳の奥でフロレスタンの足音が響いているような錯覚にとらわれます。
ピアニストにとっての『飛翔』:超一流の技術と表現力
『飛翔』は、ピアノ学習者にとっても憧れの一曲であり、コンクールや音大の入試、リサイタルのプログラムにも頻繁に取り上げられます。
しかし、この曲を完璧に演奏するのは容易ではありません。
技術的にも、精神的にも、非常に高いハードルが存在します。
『飛翔』技術的な難所
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和音の跳躍と正確性:
冒頭のテーマをはじめ、右手は太く、速い和音の移動を求められます。手の小さいピアニストにとっては、オクターブ以上の和音をレガート(滑らかに)かつ力強く響かせるのは至難の業です。
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左手の内声とアルペジオ:
左手は単なる伴奏ではなく、時に右手のメロディと対等に渡り合う対位法的な動きをします。特に、親指と人差し指で刻む内声のリズムを正確にキープしながら、低音を豊かに鳴らすバランス感覚が必要です。
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ペダリングの難しさ:
シューマンの音楽は、ペダルを多く踏みすぎると響きが濁り、混沌としてしまいます。しかし、踏まなすぎるとロマン派特有の豊かな響きや「飛翔感」が失われます。濁らせずに、かつ音を繋ぐという、極めて繊細な足元の技術が要求されます。
『飛翔』精神的な難所(表現力)
この曲を「ただの速くて格好いい曲」として弾いてしまうと、シューマンの音楽ではなくなってしまいます。
テクニックの誇示(ヴィルトゥオージティ)に走るのではなく、「傷つきやすい若者の、狂気と紙一重の情熱」を表現しなければなりません。f(フォルテ)の激しさの中にどれだけの「切なさ」を込められるか、p(ピアノ)の静けさの中にどれだけの「情熱の残り火」を仕込めるか。演奏者の人間性と、シューマンへの深い共感が試される楽曲なのです。
『飛翔』YouTubeでレッスン動画を視聴してましょう
ジャズピアニストとして有名な上原ひろみさんが15歳のときに「NHK趣味百科ピアノで名曲を」という番組に生徒として出演しています。
講師はヴェーラ・ゴルノスターエヴァ先生で、それは素晴らしいレッスンです。
32年も前の動画ですが、ピアノの音も映像もとてもきれいです。
天才ジャズピアニストとしてアメリカで活躍している上原さんが、まだあどけなさの残る表情で、『飛翔』を弾いていますが、演奏はさすがと思わせるものでした。
そして、ゴルノスターエヴァ先生の曲に対するアプローチが、とても解りやすく、想像力を引きだすレッスン風景に感嘆しました。
上原ひろみさんの演奏が先生のアドバイスで、より深みが出たことにも驚きます。
今、『飛翔』を練習している人は視聴されることをおすすめします(*^^)v。
『飛翔』 名盤紹介:この演奏を聴いてみましょう
「飛翔」を聴くにあたり、解釈の違いを楽しめる3つの名盤をご紹介します。ピアニストによって、フロレスタン(情熱)とオイゼビウス(内省)のどちらに比重を置くかが異なり、全く違う表情を見せます。
スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter)
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特徴: 圧倒的な打鍵の強さと、爆発的なエネルギー。
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聴きどころ: リヒテルの演奏は、まさに「猛禽類が大空へ急上昇する」かのような凄まじい迫力があります。テンポは非常に速く、妥協のない打鍵が聴き手を圧倒します。
シューマンの持つ「狂気」の側面に焦点を当てた、伝説的な名演です。
ウラディミール・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz)
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特徴: 悪魔的なテクニックと、色彩豊かな音色の変化。
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聴きどころ: ホロヴィッツはシューマンを非常に得意としていました。彼の弾く『飛翔』は、ただ激しいだけでなく、中間部(Bセクションなど)で見せる音色の美しさが格別です。一瞬にして空気が変わり、夢の中に誘われるようなロマンティシズムを堪能できます。
マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)
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特徴: 本能的かつ野生的なリズム感、溢れ出るパッション。
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聴きどころ: アルゲリッチの演奏は、まるで彼女自身の血が鍵盤の上で沸騰しているかのような熱量を持っています。
シンコペーションのキレ、前へ進もうとする推進力は唯一無二であり、若きシューマンの焦燥感と見事にシンクロしています。
現代を生きる私たちに響く『飛翔』のメッセージ
シューマンの「飛翔」が、作曲から180年以上経った今もなお、世界中で愛され、多くの人の心をとらえているのはなぜでしょうか。
それは、この曲が「過酷な現実に抗い、理想に向かって精神を飛翔させようとする人間の普遍的な姿」を描いているからではないでしょうか。
指の故障、愛する人と引き裂かれ、未来への不安など当時のシューマンは、四面楚歌の状況にありました。
普通であれば絶望し、立ち止まってしまうような暗闇の中で、シューマンは音楽という翼で、現実のはるか上空へと飛び立ったのでしょう。
心が沈んでいる時、何かに向かって一歩を踏み出したい時、ぜひシューマンの「飛翔」を聴いてみてください。
冒頭の強烈な和音が響いた瞬間、あなたの心もまた現実の重力を振り切って、高く気高い大空へと飛び立つことができるかもしれません。

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