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今回はロベルト・シューマン(1810〜1856)の生涯とピアノ協奏曲についてじっくり見ていきたいと思います。
19世紀ロマン派音楽の世界で、これほど純粋で、激しく、また痛切な愛の物語を残した作曲家はなかなかいないでしょう。
文学への深い愛着、ピアニストとしての挫折、精神の混迷、そして何よりも生涯の伴侶となるクララ・ヴィークとの激しくも美しい恋。
シューマンが遺した唯一のピアノ協奏曲『ピアノ協奏曲 イ短調 作品54』(1845年に完成)は、二人の愛の葛藤と精神の結びつきが形となった、最高峰のロマン派作品といえるでしょう。
ロベルト・シューマンの激動の生涯をたどりながら、どうやってこの名曲が生まれたのか、そしてクララとの深い絆や作品に隠された秘密についても探っていきます。
ぜひ、最後まで読んでくださいね!
シューマン文学少年から音楽の道へ・ピアニストの夢と残酷な挫折
シューマンはもともと文学少年だったのですが、音楽が好きでピアニストになることを夢見るようになりました。
ただ、ピアニストになる夢はあまりにも残酷な形で挫折してしまいます。
シューマン・ツヴィッカウの文学的土壌、そして若き日のさすらい
ロベルト・シューマンは1810年、ザクセン王国の小さな町ツヴィッカウで生まれ、お父さんのアウグスト・シューマンは、書籍商であり出版社も営んでいました。
そして自身でも文筆に携わっていたようです。
このような環境で育ったシューマンは、幼いころからロマン主義文学の大家ジャン・パウルやE・T・Aホフマンといったロマン主義文学に親しみ、詩や小説を書く才能を見せていました。
この「文学的感性」が、のちにシューマンの音楽に独特の「詩的表現」を生んだのでしょう。
しかし、1826年にお姉さんが精神の病により自らの命を絶ち、さらに最愛のお父さんも急逝するという悲劇に襲われました。
そして、シューマンはお母さんの「現実的な未来と経済的な安定」の願いにしたがい、ライプツィヒ大学の法学部へと進学します。
シューマンは、法律には興味が湧かなくて講義にはほとんど出ず、音楽と文学に夢中になってしまいます。
そうして次第に音楽の道へ進みたいという気持ちが強くなっていきした。
シューマン・運命の師ヴィークと天才少女クララとの出会い
シューマンが本格的に音楽を学び始めたのは、ライプツィヒで名高いピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りしてからのことです。
お母さんは初めは反対していましたが、ヴィーク先生が、「3年以内にモシュレスやフンメル以上のピアニストに育てる」と約束してくれたので、ようやく音楽の道へ進むことができました。
厳格で有名なヴィーク先生のもとで、シューマンは「ヨーロッパ随一のピアニストになる」という大望を抱くようになります。
シューマンはもともと夢見がちな人だったのですね。
そしてヴィーク家でシューマンは運命のひと、クララ・ヴィークと出会うのです。
当時、クララはまだ9歳ほどの少女でしたが、すでに「神童」としてライプツィヒ中を驚かせる音楽、特にピアノの才能を発揮していました。
シューマンにとっては、初めは愛らしい妹のようでしたが、同時に畏敬の念を抱かせる芸術の女神のような存在だったのです。
シューマン指の負傷により演奏家から「言葉と音」の表現者へ
ピアニストとしての成功を焦ったシューマンは、弱い薬指(4の指)の独立性を高めるため、自作の練習器具をつかって過酷なトレーニングを繰り返します。
これが裏目にでて、ピアニストにとってとんでもないことになってしまいました。
右手の薬指と中指(薬指と小指という説も)の麻痺が生じてしまったのです。
当時の最先端の医学治療を試みても、指が動くことはありません。
ピアニストとしての夢が破れたシューマンの絶望は、想像を絶するものだったと思います。
それでも、音楽を諦めることは出来ません。
ピアノが弾けなくなったのなら、「作曲」や「音楽評論」に自分の情熱を注ごうと決心したのです。
1834年、『新音楽時報』を創刊して、その鋭い感性で当時の浅薄な音楽界を批判します。
そしてショパンやブラームスの才能をいち早く見出したのも、この評論家としてのシューマンだったのです。
シューマンは「フロレスタン(情熱的・攻撃的な人格)」と「エウゼビウス(内省的・詩的な人格)」という2つの人格を筆名にして使い分け、シューマン自身の複雑な精神世界を音楽評論を通して表現し始めました。
シューマンとクララの禁断の愛:引き裂かれた二人の「裁判闘争」
やがてシューマンとクララの関係も次第に変化していきます。
シューマン 燃え上がる恋情・クララ少女から大人の女性へ
シューマンがピアニストへの夢を絶たれ、作曲家として歩みだした頃クララはピアニストとして着実に成長していきました。
クララの演奏はゲーテやパガニーニ、ショパンをも感嘆させ、まさに時代のスターとなったのです。
シューマンが20代半ば、クララが16歳を迎える頃には、「兄妹のような親愛」から「激しい恋」へと変わりはじめます。
1835年の秋には、二人は互いに永遠の愛を誓い合いました。
シューマンとクララ:父親フリードリヒ・ヴィークの猛烈な拒絶
この二人の関係を知ったクララの父親、フリードリヒ・ヴィークはこれに激しく怒り、反対しました。
ヴィークにとって、クララは家名の誇りであり、かけがえのない才能でした。
それに対してシューマンは、指を痛めて将来も不確かな、一介の若手作曲家に過ぎません。
ヴィークはクララをシューマンから力ずくで引き離し、手紙のやり取りさえも一切禁止しました。もし二人が会うならば、シューマンを「ピストルで撃ち殺す」とまで脅迫したそうです。
この引き裂かれた苦悶の数年間は、シューマンの創作にさらなる美しさをもたらします。
『謝肉祭』『幻想小曲集』『子供の情景』『クライスレリアーナ』はすべて、クララに会えない絶望と、狂おしい想いから生まれた「音楽のラブレター」だったのです。
シューマン:前代未聞の「結婚許可裁判」へ
ヴィークの執拗な嫌がらせがエスカレートし、シューマンの社会的信用を傷つけるために「シューマンは重度のアルコール中毒者である」などさまざまな噂を流しました。
その上、クララの演奏会を妨害するまでになったのです。
娘のコンサートの妨害まで行われましたから、その執念深さには驚かされますね。
耐えかねたシューマンとクララは、当時の法律に基づき、「父親の同意なしに結婚を認める」よう裁判所に訴えたのです。
これはさすがに前代未聞の行動だったようです。
1839年から始まったこの裁判はおよそ2年に続き、繊細なシューマンを激しく消耗させましたが、クララの意志は揺らぐことはありませんでした。
ピアニストとしての修練が、クララを意志の強いしっかり者の女性に育てたのかもしれませんね。
そして1840年8月、裁判所はついに二人の結婚を認める勝訴判決を下したのです。
シューマン:愛の絶頂期に生まれた「ピアノ協奏曲」の原型
シューマン1840年「歌の年」・歓喜の爆発
1840年9月12日、クララの21歳の誕生日の前日、二人はようやく教会で結婚式を挙げました。
長い苦難の末、ようやく愛する人と人生を共にできる幸福感は、シューマンにとって創作の大きな活力となったのです。
それまでピアノ独奏曲を中心に作曲していたシューマンが、この年に限って一気に歌曲を130曲以上書き上げています。
『詩人の恋』『リーダークライス』『女の愛と生涯』など、名作が次々に生まれ、この1840年は「歌の年(Liederjahr)」として知られることになりました。
クララからの示唆でシューマン「オーケストラへの挑戦」
新婚生活の中、クララは妻としてでなく、シューマンの最も信頼する芸術上のアドバイザーでもありました。
クララの日記にはこう記されています。
「ロベルトの才能は、ピアノだけに留まるべきではないわ。
彼の豊かな想像力は、もっと大きなキャンバス、つまりオーケストラでこそいきるはずよ。
私は彼の協奏曲を、世界中の舞台で弾く夢をもっているの」
当時、ヨーロッパ各地を巡る現役ピアニストであったクララは、「シューマンの作品を演奏する」という望みを強くもっていたのです。
夫の才能を誰よりも信じるクララの言葉に突き動かされ、シューマンは管弦楽作品の作曲へと本格的に取り組むことになりました。
1841年は、交響曲第1番『春』などが生まれた「交響曲の年」となったのです。
シューマンの作曲活動をみると、ジャンルごとに時期があり、ピアノ作品、歌曲、交響曲と夢中になって、取り組む様子がうかがえます。
まあ、これはシューマンの性格によるものなのかな、なんて私は勝手に思っています(^^)
シューマン: 出版拒否された『ピアノとオーケストラのための幻想曲』
クララの期待に応えようと、シューマンは、1841年5月、協奏曲風作品『ピアノとオーケストラのための幻想曲 イ短調』を完成させます。
この作品は単一の楽章ですが、叙情的でドラマチックな傑作です。
同年8月に行われた、ゲヴァントハウス交響楽団の演奏会でのリハーサルで、クララ自身のピアノによって試演されました。
二人は手ごたえを感じていました。
ところが、出版業界からは冷ややかな反応が返ってきます。
「単一楽章の協奏曲風の作品など、前例がないし売れない」「3楽章形式の『ピアノ協奏曲』でなければ出版できない」と、一蹴されてしまったのです。
せっかくの力作が陽の目を見ることなく、楽譜はそのままシューマンの机の引き出しの奥へと眠ることになってしまいました。
この曲が真の完成を迎えるまで、さらに4年の歳月がかかったのです。
シューマン:深まる精神の病、『ピアノ協奏曲』の奇跡的な完成
シューマン栄光の影に忍び寄る精神の病
1840年代半ばを迎える頃、シューマン夫妻の生活には影が忍び寄っていました。
理由のひとつは、皮肉にも「妻クララの国際的な名声の高まり」です。
クララが演奏旅行に出かけると、どこでも喝采を浴びるのに、シューマンは常に「天才ピアニストの夫」という陰の存在に甘んじてしまうのです。
男性としてのプライドが傷つき、もともと繊細であったシューマンの精伸は次第に病んでいきます。
激しい頭痛、耳鳴り、憂鬱症、幻聴といった症状に苦しみ始めました。
そのような状況から、1844年一家は、住み慣れたライプツィヒを離れ、ドレスデンへと移住します。
静かな環境のもとで、バッハの対位法をじっくり研究し直すことによって、シューマンの精神は一時的な回復傾向を見せました。
そして1845年、かつて挫折した『ピアノとオーケストラのための幻想曲 イ短調』の楽譜を、再び机の上に広げたのです。
私も落ち込んでいるとき、悲しい時にバッハを弾いたり聴いたりすると、心を静め理性を取りもどすことができるのです。
バッハの力はすごいな~といつも思わされます。
シューマン1845年、『ピアノ協奏曲』の完成
シューマンは、1841年に書いた『幻想曲』に手を入れ独立した第1楽章とし、その後に続く新たな2つの楽章、瑞々しく愛らしい第2楽章『間奏曲(Intermezzo)』、そして歓喜に満ち溢れた圧倒的な第3楽章『アレグロ・ヴィヴァーチェ』を書き足しました。
4年の熟成期間を経て、全3楽章からなる堂々たる『ピアノ協奏曲 イ短調 作品54』が、ついにその完全な姿を現したのです。
シューマン『ピアノ協奏曲』に隠された「クララへの愛」のメッセージ
このシューマンの『ピアノ協奏曲 イ短調』は、モーツァルトやベートーヴェンの協奏曲とも、当時人気だったショパンやリストの華やかな協奏曲とも少し違います。
この作品では、「ピアノがオーケストラと競い合うのではなく、互いに語り合い支えあうように演奏される」のが大きな特徴です。
それでは各楽章の魅力を見ていきましょう。
第1楽章:アレグロ・アフェットゥオーゾ(イ短調、4/4拍子)
曲は、オーケストラの力強い一音から始まります。
その直後、ピアノが勢いよく駆け降りるように和音を弾き、一気に聴く人を作品の世界に引き込みます。
続いて木管楽器が奏でる、どこか切ない、ため息のような第一主題を提示します。
この美しいメロディこそが、この『ピアノ協奏曲』全体を支える最も大切なテーマです。
楽譜に隠されたクララの暗号
実は、メインテーマにはシューマンらしい遊び心が隠されています。
最初の4つの音には「音名暗号(クリプトグラム)」と呼ばれる仕掛けがあると考えられています。
このテーマは最愛の妻クララ≪CLARA≫の名前を連想させるように作られていると言われます。
ドイツ語の音名で解読すると、以下のようになります。
- C = C
- H = H
- A = L(ラテン音階の変形、またはA)
- A = A
これらを並び替えると、最愛の妻の名前である「C-H-L-A-R-A(CLARA、クララ)」を指し示すようになっているのです。
本当に暗号だったのかは断定できませんが、多くの研究者がこの説を紹介しています。
シューマンは、この協奏曲にクララへの深い愛情を込めたのではないでしょうか。
聴きどころはカデンツァ
第1楽章の後半では、ピアノだけが演奏する「カデンツァ」が登場します。
一般的な協奏曲では超絶技巧を披露する場面ですが、この作品では派手さより、静かな思索と激しい情熱が入り混じった音楽になっています。
第2楽章:間奏曲(Intermezzo)アンダンティーノ・グラツィオーソ(ヘ長調、2/4拍子)
長大で劇的な第1楽章とは対照的に、第2楽章はわずか5分ほどの愛らしく内省的な小品です。
ピアノと弦楽器が短いフレーズを、優しく受け渡しながら、会話を楽しんでいるように進んでいきます。
その様子は、まるで暖炉の前でシューマンとクララが静かに睦み合い、幸福な語らいをしているかのようです。
私自身、この曲の中で最も好きな楽章です。
第1楽章の激しさから一転して穏やかな優しさに満ちた、この短い間奏曲は『トロイメライ』を聴くような夢見心地を誘います。
しかし、楽章の終わりになると、第1楽章のテーマが現われ、そのまま切れ目なく第3楽章へと続いていきます。
第3楽章:アレグロ・ヴィヴァーチェ(イ長調、3/4拍子)
第3楽章は、明るく華やかなイ長調で始まります。
第2楽章の静かな雰囲気から一転して、ピアノが軽やかに駆けあがると、歓喜に満ちたフィナーレが始まります。
リズムに隠された面白い仕掛け
この楽章には、シューマンならではのリズムの工夫があります。
曲は3拍子ですが、ピアノとオーケストラのアクセントが少しづつずれるため、まるで2拍子のダンスを踊っているような軽快さを感じます。
こうしたリズムの遊びが、独特な躍動感を生み出しているのです。
長い困難をのり越えて結ばれたシューマンとクララの喜びを表しているようにも聴こえ、
ロマン派音楽を代表する感動的なフィナーレとなっています。
ピアニスト泣かせの難曲
この協奏曲は、ピアニストにとってとても難しい作品と言われています。
ピアノはほとんど出ずっぱりで、体力、集中力が求められます。
さらにシューマン独特の弾きにくいパッセージが満載なのです。
それでも、多くのピアニストが挑戦したいと思うのは、この作品が技巧だけでなく、深い音楽性を表現できる曲だからでしょう。
シューマン:歴史的初演、フェルディナント・ヒラーが指揮を務めた名演
シューマン1845年12月4日、ドレスデンでの歓喜の初演
シューマンの協奏曲が完成し、その初演は、1845年12月4日、ドレスデンのホテル・ド・サックスのホールで行われました。
ピアノ独奏はもちろん、この曲の誕生を誰よりも熱望していた、妻のクララ・シューマンその人です。
指揮を務めたのは、シューマン夫妻の友人でもあり、この曲を献呈したピアニスト・作曲家・指揮者でもあるフェルディナント・ヒラーでした。
クララはこの日の演奏を日記にこう記しています。
「ロベルトの協奏曲を弾く歓びと言ったら、何と大きなものでしょう。ピアノがこれほど見事にオーケストラと溶け合い、そして深遠な詩情にみちた協奏曲を、私は他に知りません。
演奏中、ロベルトが指揮者の横で満足げに微笑んでいたことは、私にとってこの上ない慰めでした。」
初演はその期待を裏切らず大成功をおさめ、翌年ライプツィヒでの再演でも、熱烈な賛辞をあびました。
「技巧主義に走らない、真の芸術的協奏曲」として、当時の音楽界に衝撃を与えたのです。
シューマン・崩壊する精神、ライン川への身投げ、そして早すぎる死
しかしこの栄華は、シューマンにとって最後の輝きとなりました。
ドレスデンからデュッセルドルフへと移り住み、音楽監督に就任しましたが、そこでの人間関係の苦悩により、精神の病は深刻化していきます。
幻聴はしだいに激しさを増し、天使の歌声が聞こえたかと思えば、すぐさま悪魔の叫びに変わるという地獄のような日々を耐え忍ぶことになります。
そんな折、若き天才ヨハネス・ブラームスと出会ったことによって一瞬だけ創作意欲を取り戻しましたが、もはや崩壊の流れを止めることは叶いませんでした。
1854年2月27日の雨の降る日。
幻覚に耐えかねたシューマンは、室内履きのまま家を飛び出し、凍り付いたライン川へと身投じます。
通りかかった漁師によって奇跡的に救われましたが、もはや正気を取り戻すことは難しかったのです。
シューマンは自ら望んで、ボン近郊エンドニヒの精神病院へ入院しました。
それから2年後の1856年7月29日、クララとブラームスの見守るなか、ロベルト・シューマンは波乱に満ちたその生涯を46歳という若さで、閉じたのです。
シューマン死後のクララ: 生涯にわたって弾き続けたシューマンの音楽
シューマンの死後、37歳のクララは、7人の子供(シューマンとの間には8人の子供がいたのですが、生後6ヶ月で亡くなっています)を抱えるという未曽有の困難に見舞われました。
ブラームスはそのとき、シューマン家の支えとなり、絶望に沈むクララを励まし、クララが再び舞台に立てるよう助力を惜しまなかったのです。
ブラームスのこの温かい支援が無かったら、シューマン家はどうなっていたのかと、考えるだけでも恐ろしいです。
クララは1896年に76歳で亡くなるまでの40年に亘り、黒い喪服をまといながら、世界中の演奏会でロベルト・シューマンの作品を弾き続けました。
なかでも、この「ピアノ協奏曲 イ短調」は、クララにとって夫シューマンの「魂そのもの」でした。
他の男性ピアニストたちが、この曲を派手に、あるいは感傷的に弾きすぎるのに眉をひそめ、楽譜に込められた本来の「詩的で、気高く、内省的な美しさ」を大切に守り通し、広めていったのです。
こうして今、私たちは「ロマン派協奏曲の頂点」とも称されるこの作品を聴くことができるのは、クララが生涯かけて守り抜いた夫シューマンの遺志と「愛」のおかげと思います。
シューマン『ピアノ協奏曲』を聴くならこれ!おすすめの名盤5選
この不朽の名作をより深く味わいたい方に、ぜひに聴いてほしい名盤を5枚ご紹介しましょう。演奏者の個性や解釈の違いが、曲の持つ「情熱」や「詩情」をさまざまに浮かび上がらせてくれますよ。
1. マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)/ニコラウス・アーノンクール指揮/ヨーロッパ室内管弦楽団
現代を代表するピアニスト、アルゲリッチの名盤です。
圧倒的な技巧がほとばしり、アーノンクール率いるオーケストラの濃密な響きと交わる瞬間は、まさに火花が散るようです。
シューマンの持つ「フロレスタン」としての情熱的な側面がドラマティックに表現された、生命力に満ちた1枚です。
アルゲリッチの若いころの演奏ですが、瑞々しく美しい表現に驚かされます。
第2楽章の音の美しさにため息が出てしまいました。
2. ラドゥ・ルプー(ピアノ)/アンドレ・プレヴィン指揮/ロンドン交響楽団
“音の魔術師”と呼ばれたルプーの演奏は、アルゲリッチとは少し趣が異なります。
アルゲリッチとは対照的に、シューマンの「エウゼビウス(内省的人格)」の美しさが際立っています。
一音一音の深い哀愁、そしてピアノがオーケストラの中に優しく溶け込む瞬間の美しさは思わず息をのむほどです。
クララへの静かな愛を、語りかけるような柔らかなロマンティシズムに満ちています。
3. クリスチャン・ツィメルマン(ピアノ)/ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
若き日のツィメルマンの瑞々しいタッチと、カラヤン指揮のベルリン・フィルの雄大で完璧な響きが奇跡的な調和を見せます。
とくに第3楽章の華やかなフィナーレは圧巻の高揚感を持ち、クラシック初心者から愛好家まで万人を魅了する名盤です。
ツィメルマンの繊細で優しい音はショパンの演奏に向いているような気がしましたが、ここではシューマンの内省的なパッセージを美しく表現して、思わず聴き惚れてしまいます。
4. マリア・ジョアン・ピレシュ(ピアノ)/クラウディオ・アバド指揮/ヨーロッパ室内管弦楽団
ピレシュの繊細で温かな音色が、アバドの慈愛に満ちた指揮と美しく響きあう演奏です。
大げさな自己主張を排し、作品本来の純粋な美しさをそっと引き出します。
第2楽章の「間奏曲」ではオーケストラとの親密な掛け合いが、まるでシューマン夫妻が静かに語り合っているかのような幸福感に満ちています。
全体に遅めのテンポで、ピレシュの丁寧な演奏によって、シューマンが伝えたかったことが聴こえてくるようです。
私はピレシュの、曲の内面性を引きだす演奏が大好きで、他の独奏曲も良く聴きます。
5. ディヌ・リパッティ(ピアノ)/ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/フィルハーモニア管弦楽団(1948年録音)
33歳という若さでこの世を去った天才ピアニスト、リパッティが遺した貴重な歴史的録音です。
モノラルながら、リパッティの透き通った音色と気品あふれる解釈は今も色褪せません。
無駄な誇張が一切ない、高潔でどこか哀切を帯びた演奏は、この協奏曲が持つ「美しさの真髄」を伝えてくれます。
リパッティのショパンの演奏が好きでよく聴きました。
抒情的で飾り気がなく、作品の本質にじかに迫る表現と美しい音で、いつまでも聴いていたいと思わされます。
このリパッティの弾いたシューマンの『ピアノ協奏曲』第1楽章はかつて「ウルトラセブン」の最終回で使われたそうで、そのころ「ウルトラセブン」を見ていた人が懐かしがっていました。
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今夜はぜひ、お気に入りの録音を見つけて、この美しくも切ない名曲に耳を傾けてみてください。
180年前のドイツで、お互いを狂おしいほどに想い合ったロベルト・シューマンとクララの息遣いが、きっとあなたの心にも優しく届くはずです。

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