音楽の歴史は古代・中世・ルネサンス・バロック時代、と分類されています。
この時代区分って何を基準にしているか分かりにくいので、少し違和感を持った人もいるのではないでしょうか?。
時の流れに従って歴史は動いていますが、世界史ではそれを分かりやすく3分割(古代→中世→近代)して分類するようになったのです。
その中で音楽の時代区分は、もう少し細かく分類されています。
ただ分類されていても、それぞれの時代が急に変わったわけではありません。
必ず移り変わる時期があって、徐々に色合いが変わっていくのです。
例えばバロック音楽の時代最後に現れたバッハやヘンデルの作品には、次の古典派音楽の要素を聴くことができます。
そして、バッハと同時代のテレマン(1681~1767)、ラモー(1683~1764)、ドメニコ・スカルラッティ(1685~1757)などの作品には、すでにバロック時代の対位法や重々しい通奏低音などは使われず、人なつこい優美な音楽が主流になってきています。
それでは時代背景と共に古典派音楽の偉大な作曲家、「交響曲の父」と言われたハイドンの生涯についてお話していきます。
是非最後まで読んでくださいね。きっとハイドンが好きになるでしょう。
古典派音楽が生まれた時代とは
18世紀半ばごろのヨーロッパでは、産業が発展し市民が経済力を持っようになりました。
彼らが求めたのは、神や王様に支配されるのではなく、自由と合理的な考えをもって行動することでした。
この動きがフランス革命(1789~1799年)へとつながり、封建主義の時代は終わりを告げたのです。
この激しい変革のなかで、音楽も大きな変化をしていきました。
前古典派 この時期は古典派音楽の代表選手ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが活躍する以前、バッハの息子たちの時代です。
バッハの息子たちは音楽家になった人が多くいました。中でもカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714~1788年)はこの時代を代表する音楽家でした。
当時はお父さんのヨハン・セバスチャン・バッハよりもはるかに有名だったそうです。
鍵盤楽器の名手でもあり、宗教音楽のほかに鍵盤楽器(特にクラビコードとピアノ)のための作品が200曲近くもあります。
ハイドンにも尊敬され、影響を与えていたのです。
ピアノの学習をしている人は、この人の曲を練習したことがあるかもしれませんね。
また、バッハの末息子ヨハン・クリスチャン・バッハはハイドンと同じ世代で、モーツアルトにも影響を与えたと言われています。
ヨハン・クリスチャン・バッハはオペラに惹かれてイタリアに留学します。
そしてヘンデルと同じようにヨハン・クリスチャン・バッハはイギリスに渡り、20年もの間イギリスで活躍したそうです。
国際派の一人ですね。
バロック音楽の時代から、古典派音楽と言われる時代に至るまで様々な音楽家が、新しい試みを作品に残してきました。
古典派音楽の三大作曲家、ハイドンやモーツアルト、ベートーヴェンが誕生するには、前古典派の音楽家からの影響が大きかったのです。
古典派音楽の代表的作曲家ハイドン
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809年)はハンガリーに接するオーストリアの小さな村ローラウで生まれました。
ハイドンの家庭は音楽とは無縁でしたが、音楽学校の校長をしていた叔父さんに音楽の才能を認められ、6歳の時から音楽の勉強を始めました。
ハイドンの才能を発見したウイーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊監督にスカウトされ、8歳の時からこの聖歌隊の一員となります。
ハイドンは、ここで変声期がくるまで9年間歌っていたのです。
変声期が来て歌えなくなったハイドンは聖歌隊を解雇され、職もなく教会の歌手やオルガンを弾いたりして、転々としていたようです。
この間に本気で作曲の勉強を始めたハイドンには、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの影響が大きかったと伝えられています。
正規の就職先も無く豊かでもなかったハイドンは、それでもずっと音楽の勉強を続けていたのですね。
ハイドン25歳の頃 モルツィン伯爵家の宮廷楽長として就職
23歳のころハイドンはフュルンベルク男爵に招かれます。ハイドンは、ここで初めての弦楽四重奏曲を作曲しました。
ハイドンはこのフュルンベルク男爵の紹介で、ボヘミアのモルツィン伯爵家の宮廷楽長となります。
ここでは交響曲第1番を作曲し、その後15曲ほどの交響曲や、鍵盤楽器のためのソナタ、協奏曲、弦楽三重奏曲などたくさんの作品を書いたのです。
しかし、モルツィン伯爵家の財政難により宮廷楽団が解散されてしまいました。
この時ハイドンに転機が訪れます。
ハイドンの優秀さに目をつけていたハンガリー王国最大の貴族、エステルハージ候にスカウトされたのです。
きっとハイドンの才能が開花していく時期が来たのでしょうね。
ハイドン エステルハージ家の宮廷楽長として30年仕える
こうしてハイドンは29歳の年にエステルハージ候の副楽長となり、30年もの間エステルハージ家に仕えることになりました。
雇い主だったパウル・アントン・エステルハージ候は一年後に亡くなってしまいます。
そして弟のニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージが兄の後を継ぐことになり、ハイドンの評価はさらに上がってお給料も増えたということです。
副楽長としてのハイドンは、エステルハージ候の求めに応じて作曲や演奏をするほか、楽団員の教育、楽譜や楽器の管理もまかされていました。
この頃ハイドンは26曲もの交響曲を作曲したのです。
エステルハージ家に訪れる王侯貴族たちはハイドンの作品や演奏に感動し、ヨーロッパ中に噂が広まって、有名になっていきます。
34歳のころに前任の宮廷楽長が亡くなり、ハイドンは宮廷楽長に就任しました。
さまざまな実験的をして作曲し、交響曲、協奏曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲などのたくさんの作品を生み出しました。
ハイドンは後に、侯爵がそのような実験を認めてくれていたと述べています。
「何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ」=Wikipediaから一部引用
そして実験を通して、ハイドンの作風はよりシンプルなものになっていきます。
ハドンの実験精神はきっと孤独な闘いだったのでしょうね。
そしてその実験が実を結んで、独創的な作品を書くことができたそうです。
40代の後半になって、ハイドンはモーツアルトと親しくなり、お互いを尊敬しあう仲になります。
そしてモーツアルトが亡くなるまで変わらない友情で結ばれていました。
ハイドン58歳でロンドンに 新たな挑戦の旅
ハイドンが58歳の時、ニコラウス候が亡くなり、息子のアントン候の時代になります。
しかしアントン候は残念なことに音楽には無関心でした。
宮廷楽団も解散され、ハイドンは肩書だけの楽長になってしまったのです。
アントン候はハイドンに年金を与え、仕事の無くなったハイドンは年金暮らしとなりました。
ハイドンは年金で暮らしの心配がなくなり自由に作曲に打ち込めると、フリーランスになったことを喜んでいたようです。
うわさを聞き付けたイギリスの興行師ザロモンが、ハイドンを訪ねてきました。
ザロモンはハイドンに、企画している演奏会シリーズの作曲と演奏を依頼します。
このオファーを受けたハイドンはこの話を親友のモーツアルトに話しました。
モーツアルトは子供の頃からヨーロッパ中を演奏旅行をして、その辛さを知っていたので、
老齢のハイドンが英語も話せないのにと、ロンドンに行くことを心配します。
するとハイドンは「私の言葉(音楽)は全世界に通じます」と言ったそうです。
そうしてハイドンはロンドンへと旅立ちます。
イギリスでも有名だったハイドンは到着を新聞に取り上げられ、連日のように招待が続いたそうです。
ハイドンのイギリスでの公演は大成功をおさめました。
ここで作曲された作品は、多くが傑作となり有名になっています。
もっともよく知られているのは交響曲第94番「驚愕(びっくり)シンフォニー」ではないでしょうか。
この曲は演奏中に寝ている聴衆を起こしてやろうと、静かな曲の途中にいきなりティンパニーで大きな音を出すという、ハイドンのユーモア精神を感じさせる曲です。
イギリスでのハイドンの人気は国王ジョージ3世からも永住を勧められるほどの、途轍もないものでした。
ハイドン オーストリアへ帰国 晩年の愛国心
一時はイギリスにとどまることも考えたハイドンは、63歳になっていました。
そのころエステルハージ家ではアントン候が急に亡くなり、息子のニコラウス2世が跡を継いでいたのです。
ニコラウス候は宮廷楽団を再結成します。ハイドンは再びエステルハージ家に仕えることをえらびました。
ハイドンが帰国した頃はオーストリアはナポレオン率いるフランスとの戦争のさ中でした。
オーストリア軍は敗北し、たくさんの領土がフランスに奪われしまいます。
栄華を誇ってきたオーストリアの敗北は国民にとって大きな衝撃でした。
ハイドンはフランスの侵攻に対する怒り、戦争への恐怖、平和への願いを「戦場のミサ」の作曲で表します。
また、ニコラウス候は宗教曲を好んでいたためハイドンはミサ曲を多く作曲しました。
6大ミサ曲と言われるミサ曲のほかに、オラトリオ「天地創造」「四季」を作曲し、大成功を収めたそうです。
この頃ハイドンの創作意欲は衰えることなく「トランペット協奏曲」ほか沢山の器楽曲も書いています。
ハイドンが65歳の時に作曲した「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」は多くの出版社から出版されたため、庶民にも愛されることとなり、国家として制定されました。
「皇帝賛歌」はハイドンにとっても特別な曲だったようです。
音楽活動ができなくなった最晩年には自宅でこの曲をピアノで弾き、慰めとしていたそうです。
ハイドンの最期
1809年オーストリアは再びフランスに負けてしまい、ウイーン占領されてしまいます。
そのような中、5月31日にハイドンは77歳でこの世を去ることになります。
次の日葬儀の後、ウイーンの教会で葬送ミサが行われました。
そこには敵国のフランス軍の軍人たちも参列し、ハイドンへの敬意を表したということです。
親友だったモーツアルトのレクイエムが演奏される中、ハイドンの魂は安らかに天に昇って行ったことでしょう。
ハイドンは機智とユーモアにあふれた作品をたくさん残して、今私たちに語り掛けてくれています。
ハイドンの作品、是非聴いてみて下さいね。

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