フレデリック・フランソワ・ショパン(1810年~1849年)の書いたポロネーズは、どんな曲なのでしょう。
ポロネーズってスパゲティの一種?って思う人もいるかもしれませんね。
実は踊りの曲の一種なんです。
ポローネーズとはフランス語で「ポーランド風」のという意味で、16世紀後半に宮廷で貴族の行進のときに演奏された曲だそうです。
ポロネーズはもともとの踊りが農民や市民の結婚式などで踊られたもので、いくつかの歌いながら踊るものが一つになったようです。
また、宮廷でのポロネーズは主に行進曲風のリズムにのって勇壮で華麗な器楽曲として発達していきました。
器楽ポロネーズは18世紀初めに特徴のあるリズムと終止形が出来上がり、スウェーデン、ドイツ、フランスに広まっていったということです。
18世紀以降バッハやテレマン、ベートーヴェンやシューベルトたちの作品にも器楽ポロネーズがあります。
そして19世紀になってショパンが「ピアノ曲ポロネーズ」の頂点を極めたのです。
今回はショパンの、生前に出版された曲の中から1番の作品26の1を解説します。
この曲の魅力、作曲された背景、そのとき日本での時代背景はどうだったのかを含めて書いていますので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
ポロネーズとはどんな音楽?
ポロネーズの起源はポーランドの民族舞踊
ポロネーズは、対になった男女が行列し、歌いながら円形を描いて踊るポーランドの民族舞踊です。
3拍子で、ゆるやかな速さで踊られていたようです。
起源ははっきりしていないのですが、17世紀ごろから農民や市民の間で踊られいた、ゆるやかな歩行曲(ホジョニ)とホップの踊り(フェミロヴィ)ゆるやかな踊り(ヴォルニ)から発展したものといわれています。
ポロネーズは民族的な舞踊でしたが、その後宮廷の儀式や行進曲などとして発達したものが、器楽ポロネーズとなりました。
そのため器楽ポロネーズは、土俗的なものというより、貴族的な雰囲気や勇壮な表情を持っているのです。
堂々とした3拍子で活気のあるリズムと独特な終止形
ポロネーズのリズムには独特の重みがあります。
たくましいエネルギーを感じさせるリズムで、一拍目の裏にアクセントがついて2拍目が強調されます。
ワルツでは一拍目にアクセントが来ますが、ポロネーズ、マズルカなどのポーランドの舞曲はそうではありません。
民族的な活気に満ちた音楽が、跳ねるようなリズムに表されています。
このリズム、ポロネーズが宮廷で行われる行進曲に取り入れられた理由の一つだったのかもしれませんね。
そしてフレーズの終わりはすべて女性終止(音楽のフレーズが強拍(一拍目)ではなく、弱拍 で終わる形)で柔らかく余韻を感じさせます。
ショパンとポロネーズ、祖国への想いを重ねた音楽
ショパンにとってポロネーズは、祖国ポーランドの音楽として切り離せないものでした。
ショパンのポロネーズは、この舞曲の性質である騎士風の力強さがあり、ショパンの作品の中で最も男性的な曲といわれています。
ショパンの考え方はかなり保守的だったようですが、ポーランドの革命に対しては強い想いを抱いていました。
祖国を想う心が、ポロネーズやマズルカなどの民族的な音楽に表現されています。
ショパンのポロネーズは18曲あり、そのうちの2曲はピアノ以外の管弦楽やチェロとのアンサンブルの音楽です。
オーケストラとピアノのための「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」が有名です。
ピアノソロのためのポロネーズは16曲ですが、そのうちの7曲が主要作品です。
その他はショパンの死後、友人のフォンタナなどが楽譜を見つけて出版した、ワルシャワやウイーンで作曲されたものでした。
ショパン「ポロネーズ第1番 作品26-1」はどんな曲?
ポロネーズ1番の調性・作曲年・難易度
調性は嬰ハ短調です。
第2主題は嬰ハ音の異名同音で、変ニ長調で書かれています。
1834年から1835年にかけて作曲し、1836年に出版されました。
難易度は中級の上くらいでしょうか。少し難しめです。
重厚な印象で、やや暗い響きに特徴がありますが、美しいメローディが魅力です。
ポロネーズ1番は冒頭の重厚な和音と強いリズムにインパクトが!
この曲は、まるで扉を強く押し開けるような和音で始まり、ベートーヴェンの「運命」交響曲の出だしを想い起させます。
そう、交響曲のような展開のある曲ではないでしょうか。
力強く何かに抗議するようなエネルギーを感じます。
それに続く部分(4小節目3拍目の裏から)は左手の伴奏がポロネーズのリズムを刻み、右手は上昇して強い意志を感じさせます。
ポロネーズ1番、中間部の美しさに詩情を感じて
変ニ長調の中間部ではショパン特有の歌が聴こえてきます。俗にいうショパン節?
中間部には静けさと美しさがあるのではないでしょうか。
少し哀愁を帯びたメロディーを、半音階の動きで印象的な低音部が支えます。
ショパンらしい装飾音符がちりばめられていますが、それらは歌の一部となって単なる装飾ではありません。
故郷を想う内面的な音楽です。そして気品も感じられます。
若きショパンの情熱
この曲には、英雄性というより「まだ言葉にならない感情」が支配しているように思えます。
ショパン自身の揺れ動く心と、折れない芯の強さがこの作品に結晶しているのではないでしょうか。
有名なポロネーズ第6番「英雄」が外へ向かう強さだとすれば、この曲は内に燃える強さを感じます。
深い印象を受ける不思議な引力を持っている作品です。
ショパン作曲当時の背景
1830年代のショパン、祖国を離れた青年
ショパンは20代前半でポーランドを離れ、その後二度と帰ることはありませんでした。
これは本人も周りの人々も誰も思ってもみないことでした。
実質上ロシアの属国となったポーランドに帰ることは、知名度が上がったショパンにとって音楽家としてロシア皇帝に仕えることだったのです。
ショパンの愛国心はそれを許すことができず、祖国に帰ることなく39歳でパリで生涯を終えたのです。
パリで活躍しながらも、ショパンの心はいつも祖国にありました。
11月蜂起とポーランドの情勢
ポロネーズ第1番が作曲された以前の1830年、ロシアの支配に対する反乱「11月蜂起」が起こります。
しかし、革命は失敗に終わり、ショパンはその知らせをウイーンで聞くことになりました。
ウイーンではポーランドの革命をよく思っていない人々の、心無い言葉に傷つき演奏会もままなららず、ショパンは21歳のときにパリへと旅立ちます。
パリでの1年目は1830年の7月蜂起の影響と、コレラの流行もあって、ショパンは仕事も無く孤独にさいなまされていました。
しかしポロネーズ第1番を書いた1834年には貴族たちの間で、もてはやされる音楽家になっていたのです。
このあたりの詳しいお話は「ショパンの生涯を詳しく解説(21歳パリへと旅立ち~39歳まで)」をご覧ください。
このころ日本はどんな時代?
ショパンがパリで活躍していたころ、日本はまだ江戸時代でした。
鎖国により海外との交流は限られていたため、西洋音楽も入ってきていません。
天保の大飢饉と庶民の暮らし
1830年代の日本では天候不順による「天保の大飢饉」の兆しがあらわれ、農民の百姓一揆、物価の高騰など社会不安が広がっていた時期でした。
将軍の権威も落ち、江戸時代は末期を迎えることになります。
天保の改革で倹約が求められ、庶民の生活は決して楽ではありませんでした。
ショパンと同時代の日本文化は?
同じ時代でも
ショパンの生きた時代はロマン派芸術が花開き、ショパンをはじめリストやカルクブレンナーなどのピアニストが誕生。
詩人のハイネ、画家のドラクロアなどとの交流によって音楽家もさらに高い文化を生んだ時代でした。
パリでピアノ音楽が花開いた時期、日本では琴や三味線が盛んでした。
西洋音楽が日本に入ってくるのはまだもう少し先、明治維新のころです。
現代の日本人音楽家は世界で活躍するようになりましたね。
ショパン音楽コンクールで入賞する日本人ピアニストが続々現れて、ショパンはどんなに驚いていることでしょう。
ここまで読んで下さったあなたは、ぜひショパンのポロネーズを聴いてショパンのメッセージを受けっとってくださいね。

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