ベートヴェンはなぜ「楽聖」と言われるのでしょう?
それはベートーヴェン自身が沢山の苦悩や苦難をのり越えながら、そこに希望を見出し音楽にした聖人だからです。
今でも「英雄」「運命」「田園」「第九」交響曲という、不朽の名作で人々に勇気を与え続けています。
交響曲に限らずベートーヴェンのどの作品にも、優しくも力強いメッセージを聴くことが出来ます。
ベートーヴェンの音楽にはどんな苦難があっても、必ず道は開けるという希望を受け取ることができるのです。
ベートーヴェンの苦悩とは何だったのでしょうか?
そしてそれをどうやって乗り越えたのでしょうか?
ベートヴェンとはどんな人物だったのでしょうか?怖い?優しい?
ベートヴェンの生きた時代とともに見ていきましょう。
ベートーヴェンに興味のある人は、ぜひ最後まで読んでくださいね。
第二のモーツアルトといわれた神童の時代
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンは1777年12月16日ドイツ西部、ライン川の流れる美しい都市ボンで生まれました。
ベートヴェンの家系は3代にわたる音楽家です。
祖父のルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(孫のベートーヴェンと同じ名前)はこの地を治めるケルン選帝侯の宮廷楽長で、バス歌手でもありました。
お父さんのヨハンも子供の頃はボーイソプラノ歌手として、成人してからはテノール歌手として宮廷に仕えていました。
そして鍵盤楽器奏者としても相当な腕前だったそうです。
ベートーヴェンは幼いころにお父さんの手ほどきで、ピアノとヴァイオリンを始めています。
お父さんの教え方は虐待に近いほどのスパルタ教育だったため、子供の頃のベートーヴェンはピアノが嫌いだったとか。
また、お父さんは無類のお酒好のため、アルコール中毒になって仕事もろくにできず、収入も途絶えがちでした。
そのためもあったのでしょう、ベートーヴェンをモーツアルトのような天才にしようと、躍起になっていたようです。
そのお陰か?ベートヴェンは7歳のときに公開演奏会でピアノを弾くまでになりました。
そして選帝侯が劇団の音楽監督として招いた、作曲家でオルガニストのヨハン・ゴットロープ・ネーフェに見出され、才能が一気に花開くことになります。
ネーフェはベートーヴェンに、そのころまだあまり知られていなかった、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を弾かせたりしていました。
この曲集は対位法で書かれており、理解するのも難しいものです。
10歳にも満たないベートーヴェンが弾きこなしていたなんて驚きです。
ネーフェはベートーヴェンにクラヴィーア、オルガン、作曲法、通奏低音など音楽の基礎を教えます。
ベートヴェンの才能を信頼していたネーフェは11歳になったベートーヴェンに自分の代役を任せるまでになったのです。
そしてネーフェは音楽雑誌≪Magazin der Musik≫にベートーヴェンの才能を紹介します。
そこには「成長したら必ず第二のモーツアルトになるだろう」と記されていたそうです。
ベートーヴェン、アルコール依存症の父に代わって家長に
1787年春、16歳のベートヴェンはモーツアルトを訪ねるためにウイーンに旅立ちます。
この時代のウイーンは音楽の都となっていました。
ヨーロッパ各地から音楽家が集まっており、貴族やお金持ちの人びとが音楽家を支援していたのです。
しかし、モーツアルトはとても忙しく、レッスンを受けるのは難しかったようです。
そのうえ、お母さんが病気になったという知らせを受け、滞在期間が2週間と大幅に短くなってしまいました。
結局モーツアルトのレッスンは受けられなかったのではと、推測されています。
帰国して2か月ほどでお母さんは他界してしまいます。
このことでお父さんはますます酒浸りになり、ほとんど仕事が出来なくなってしまいました。
18歳のベートヴェンはふたりの弟を養うため、お父さんの給料の半分を受け取れるよう手続きをします。
そして家長としての責任を全うしようと決意したのです。
ベートーヴェン 青年時代
このような事情を抱えていたにも関わらず、ベートヴェンはボンでの4年間を快活に過ごしていました。
ベートヴェンは友人のアントン・ライヒャとボン大学の聴講生として、哲学や文学、芸術史などを学びます。
そして新しい選帝侯マクシミリアン・フランツの時代になると同時に、ボンでは音楽が盛んになっていきました。
ベートーヴェンは選帝侯に才能を認められ、宮廷楽団のヴィオラ奏者として仕えることになります。
この時代のベートーヴェンは主にピアノ演奏、とりわけ即興演奏の腕が素晴らしく貴族のサロンに招かれることが多かったのです。
当時の貴族たちは芸術に関心がたかく、特に音楽では自分の楽団や歌劇場まで持つようになっていました。
貴族たちにとって芸術に力を入れることは、ステータスでもあったのです。
ベートヴェンの才能にほれ込んだ貴族たちは金銭面での支援も惜しみませんでした。
ベートーヴェンに邸宅の中にある住まいを貸したリヒノフスキー侯爵、生涯にわたって援助をしたルドルフ大公などの錚々たる名前が残っています。
このころのベートーヴェンは、後の気難しいイメージとは想像もつかないほど、社交的で明るく人気者だったそうです。
ただ、プライドの高いベートーヴェンは、貴族の前でも「ご機嫌取り」や服従の姿勢を嫌って、かなり無作法な態度をとっていました。
それでも貴族のほうが折れて、ベートーヴェンはしきたりに従わなくても良いとなったのだとか。
ベートヴェンの才能はそれほど大きな魅力があったのでしょうね。
ベートーヴェン ウイーンへ
1791年、ベートーヴェン21歳のとき大作曲家ハイドンに出会います。
このころハイドンは興行師ザロモンと演奏旅行の旅に出ていました。
その旅の途中でボンに立ち寄った際に、ベートーヴェンは自分の作品を見せに行きます。
ベートーヴェンの才能を認めたハイドンは、フランツ選帝侯にベートーヴェンをウイーンに留学させるよう推薦状を書きました。
こうしてハイドンの弟子となったベートーヴェンはハイドンから対位法を学びます。
しかし、ハイドンは多忙だったため、あまり教えてもらえなかったようです。
そこでハイドンには内緒で、他の先生からのレッスンも受けることにしていました。
ベートーヴェンは、ウイーンでも貴族のサロンに招かれて、演奏活動を始めました。
そしてピアニストとしても有名になっていきます。
カール・リヒノフスキー侯爵はモーツアルトの死後、モーツアルトに代わってベートーヴェンを支援するようになりました。
ベートーヴェンに住居を提供したり、年金を支給したりと支援は手厚いものでした。
そしてリヒノフスキー侯爵と5か月に亘るヨーロッパ旅行をし、ベートーヴェンの名声ますます広まっていきます。
このころお父さんが亡くなり、弟たちを呼び寄せたりと、私的なことにも変化があったようでです。
ベートーヴェン28歳 作曲家へと
ヨーロッパ旅行で見分を広めたベートーヴェンは、本格的に作曲家へと方向転換します。
1798年ベートーヴェン28歳の年に作曲されたピアノソナタ第8番「悲愴」は、ベートーヴェン自身が「悲愴な大ソナタ」というタイトルをつけたと言われているソナタです。
それだけ意気込みと自信を持って発表された曲なんですね。
弾いたことのある人もいるのではありませんか?
ベートーヴェンの作品は後に前期、中期、後期と分けて分類されています。
前期の若々しく溌溂とした作品、中期の円熟した作品、後期の精神的な深さをたたえた作品と、ベートーヴェンの生涯の軌跡をたどるような分けかたです。
悲愴ソナタは初期から中期にかけて作曲されました。
このころベートーヴェンは難聴の初期症状が出はじめており、それをかなり苦にしていたようです。
ベートーヴェン 耳が聞こえない!
ベートーヴェンは30歳になるころから難聴が進んでいきました。
音楽家として耳が聞こえないとは、死を意味するほど打撃的なことですよね。
周囲の音楽家たち、とりわけ敵とみなしていた音楽家に「難聴」を悟られないよう、ベートーヴェンは人との接触を避けるようになっていきます。
ベートーヴェンは聴力の衰えは一時的なもので、いつかは治るだろうと希望を持っていたのですが、医師の治療を受けても良くなりません。
医師のすすめで、ウイーン郊外のハイリゲンシュタットで療養をしましたが、ここでベートーヴェンは難聴の回復は無いと、確信するのです。
ベートーヴェン ハイリゲンシュタットで遺書を書く
絶望したベートーヴェンは弟のカールに宛てて遺言状を送ります。
この遺言状が「ハイリゲンシュタットの遺書」といわれ、のちの世まで伝わっています。
これは一般の遺書とは趣が違って、自殺を考えたベートーヴェンが、むしろ苦悩をのり越えて生きる決意を表明したものでした。
ベートーヴェンの遺書には「強い意志をもって、音楽家としての使命を達成しなければならない」と記されていたのです。
そしてその後の作品は、使命感を感じさせるものへと変化していったことが認められます。
ベートーヴェン 33歳 中期の作品ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」を発表
ベートーヴェンの中期の傑作、ピアノソナタ「ワルトシュタイン」は1803年に、友人のライヒャからプレゼントされたグランドピアノで作曲されました。
このピアノはフランスのピアノ製造者、セバスチャン・エラールが開発した新しいタイプのピアノでした。
5オクターブ半の音域と、幅広い強弱をつけられる表現力の高いピアノです。
第1楽章はハ長調というはっきりした調で、力強さを感じさせる音楽が展開されます。
ワルトシュタインの名前は、ワルトシュタイン伯爵に献呈されたため付けられたものです。
ワルトシュタイン伯爵はボン時代から長い間ベートーヴェンを支援し、金銭的な面でも援助し続けた貴族でした。
他に中期の傑作としてピアノソナタ第23番「熱情」、バイオリンソナタ第9番「クロイツェル」、交響曲第3番「英雄」第5番「運命」などの素晴らしい作品が挙げられます。
ベートーヴェン 後期の作品 交響曲第9番「合唱付き」
1814年~1827年、ベートーヴェン40歳代から亡くなるまでの13年間を後期とされています。
この時期のベートーヴェンは耳がほとんど聞こえなくなって、心の声を聴いているかのような深い思索や内省的な面をあらわす作品を、生み出していきました。
第28番から32番までの「ピアノソナタ」、「ディアベリ変奏曲」「ミサソレムニス」「交響曲第9番」など、集大成の作品とも言えるものです。
ベートーヴェンは人間にとって普遍的な課題や、人生におけるドラマを音楽にしてきました。
苦悩を克服した力強い感情と、優しく慰められる感情が一つの曲の中に込められ、壮大な世界を作り出したのです。
ベートーヴェンは音楽を芸術へと高めた、偉大な作曲家です。
自由・平等・博愛の精神を重んじたベートーヴェンの高潔な心をぜひ聴いてみましょう。

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