ヨハン・ゼバスティアン・バッハというと「音楽の父」という言葉を聞いたことがありませんか?
クラッシク音楽の基礎を築いた人、音楽史上もっとも偉大な音楽家として、こう呼ばれています。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハはバロック時代の最後に生まれましたが、その当時の流行とは違う音楽を書いたのです。
バロック時代は王様や貴族たちが力をもっていたので、音楽家はその人たちのために食事やパーティーなどのBGM的な音楽を書いていました。
では何故ヨハン・ゼバスティアン・バッハは違う音楽を書いていたのでしょう。
そしてそれはどんな音楽だったのでしょう。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハがどのようにして生まれ成長し、どんな音楽家になったか、
どんな音楽を作曲したのか?
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品がなぜ今の私たちに、深い感動を届けてくれるのか、是非最後まで読んでくださいね。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生誕と幼少期
バロック時代、音楽の都といえばイタリアです。
次いでフランス、イギリスが音楽の盛んな国々でした。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生まれたドイツは、まだ音楽においてはかなり遅れた国だったのです。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、ドイツ北部チューリンゲン地方のアイゼナハという小さな町で、1685年3月21日に生まれました。
バッハ家は7世代にもわたって著名な音楽家を生んだ一族で、お父さんも楽団のヴァイオリニストや指揮者をつとめていました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは先祖の音楽における才能や技術を受け継いで、大バッハとなったわけですね。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの幼少期の記録が余りないため、詳しいことは知られていませんが、8歳まで町の学校でドイツ語やラテン語を学んでいたようです。
しかし、9歳の時にお母さんのエリザベートが亡くなってしまいます。
その後、お父さんは新しいお母さんと結婚するのですが、なんと程なくしてお父さんが亡くなってしまったのです。
新しいお母さんは、生活の目処が立たなくなり、実家に帰ってしまいます。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは8人兄姉の末っ子でまだ幼かったので、教会のオルガニストになっていた長兄のヨハン・クリストフに引き取られました。
この兄からクラビーア(ピアノの前身の鍵盤楽器)やオルガンの演奏を学んだそうです。
パッヘルベルの弟子だった兄は南ドイツの作曲家たちの貴重な楽譜を所有していましたが、バッハには見せなかったため、内緒で写譜していました。
ところがそれがバレてしまい、写譜した楽譜は焼かれてしまったのです。
驚くべきことにバッハは膨大な楽譜を写譜している間に、すべて暗譜してしまったたということです。
凄い能力ですね。
弾いていても暗譜するのが大変なのに、楽譜そのものを覚えるなんて想像もつかない話です。
10歳になったヨハン・ゼバスティアン・バッハはラテン語学校に入学し、ラテン語のほかに文学や医学、神学など多くの事を学びました。
しかし詳しい理由は分かっていませんが、15歳の時に退学してしまいます。
そして、ドイツ北部のリューネブルクにある学校に入学し、ルネサンス音楽やバロック音楽を学びました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生まれたアイゼナハは、宗教改革でプロテスタントを立ち上げた、マルティン・ルターが聖書をドイツ語に翻訳した土地です。
アイゼナハはドイツでも北部に位置する地方で、ここの人たちはプロテスタントを信じ質素で堅実であることを尊んでいました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの真面目で勤勉であることも、この土地柄からくるものかもしれませんね。
この時期のヨハン・ゼバスティアン・バッハは、オルガンの習得と対位法を学ぶことに集中していました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ青年期 17歳ころから30歳前後 アルンシュタット~ヴァイマル
今では信じられないかもしれませんが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは当時それほど有名でもなく、評価も高くはありませんでした。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ自身はそんなことを気にもかけず、ひたすら勉強と作曲の日々を送っていたのです。
この時代の音楽の都だったイタリアの作曲家たち、とくにヴィヴァルディやスカルラッティの楽譜を取り寄せたり、フランスの音楽にも触れたりして研究を続けています。
音楽家の報酬が低かったため、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはドイツ国内で職を求めて転々としていました。
17歳の時にはヴァイマル宮廷の召使として就職しましたが、18歳の時にアルンシュタットの新しい教会のオルガンを鑑定する役に受かり、この教会のオルガニストとなります。
ところが20歳の時、ラテン語学校の先輩に侮辱されて剣を抜いたという騒動のため、聖職者会議にかけられ、休職を願い出ました。
その1ヶ月ほどの休職期間中に旅にでたのですが、その旅行が4か月にも及んで、またまた聖職者会議にかけられてしまいました。
ゴタゴタに嫌気がさしたヨハン・ゼバスティアン・バッハは、23歳の時ヴァイマルに旅行したのです。
このときヴァイマル大公の前で素晴らしい演奏をしたことがきっかけとなり、宮廷オルガニストの職を任命されました。
ここでは社会的地位を得て、報酬も高くなり各地から弟子が集まってきたのです。
22歳の時にマリア・バルバラと結婚して7人の子供を授かっていましたが、生活に困ることはなかったようです。
この青年時代に作曲した曲は、おもに教会のためのオルガンによる宗教音楽でした。
代表的な作品のうち3曲を紹介します。
若きヨハン・ゼバスティアン・バッハの生命力あふれるはつらつとした音楽が聴こえてきます。
どの曲もYouTubeでパイプオルガンの演奏を聴くことができるので、是非聴いてみて下さい。
・幻想曲とフーガ ハ短調 BWV537
・トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV564
・オルガン小曲集 BWV599~644
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 宮廷楽師の時代 30歳代 ケーテン時代
32歳の時にケーテンのレオポルト侯から宮廷楽長の職を依頼されます。
しかし、ヴァイマル公との契約が終わっていないのにもかかわらず、それを受けることにしたため、契約違反との理由でヴァイマルに拘束されてしまいます。
1か月間の拘留ののちヴァイマル公は諦め、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは晴れてケーテンの宮廷楽長となることができました。
ケーテンでは宮廷楽師長の地位を得て、教会音楽から離れ世俗音楽の作曲に取り組みました。
35歳になったバッハは収入も増え、作曲にも集中することができ、順風満帆だったのですが突然の悲劇が襲います。
7人の子供を残して、妻のマリアが亡くなってしまったのです。
多忙を極めていたヨハン・ゼバスティアン・バッハは、次の年に宮廷歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚します。
彼女は音楽家でもあったので、バッハの仕事の手助けもしていたそうです。
ケーテン時代のヨハン・ゼバスティアン・バッハをひと言でいうと、音楽が宗教的義務から解放された時期と言えます。
神にささげるものである宗教音楽に対して、人間が聴き手に変わったのです。
ここでは、オルガンや歌の曲ではなく器楽曲が多く作曲されました。
代表的作品の一部を紹介しましょう。
・ブランデンブルク協奏曲 全6曲 BWV1046~1051
・無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ
・無伴奏チェロ組曲
・平均律クラヴィーア曲集第1巻
いずれも器楽曲として有名ですが、緻密な音楽づくりで演奏者泣かせの曲ばかりです。
でも聴いていると、つねに考えさせられ、新しい発見があって繰り返し聴きたくなるのです。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 円熟期 ライプツィヒ以降 40歳代~最晩年まで
ヨハン・ゼバスティアン・バッハが37歳の時、ケーテンのレオポルト侯が結婚したのですが、お妃は音楽嫌いだったそうで、宮廷音楽活動の予算が削られてしまいました。
そこでヨハン・ゼバスティアン・バッハは、ライプツィヒにあるトーマス教会のカントルに志願してケーテンを辞職しました。
カントルとは教会音楽の指導者として、合唱の指揮、オルガン奏者、教育などを受け持つ人の事です。
ケーテンの時とは地位も収入の面でもけた違いに下がってしまいましたが、大都市のライプツィヒは他の音楽家や知識人との交流もあって、今までとは違う世界がひらかれたようです。
そして教会が示した教育活動は、ほかの人に頼み音楽活動に専念しました。
39歳の時に大曲ヨハネ受難曲の初演を果たします。
受難曲とはイエス・キリストが十字架にはり付けられるまでの苦悩と、死を描いた合唱と管弦楽で書かれた曲です。
ヨハネ福音書によるもので非常にドラマティックで緊迫感のある曲で、演奏時間は休憩をはさんで約2時間という大曲です。
42歳のときにマタイ受難曲が初演されました。
マタイ受難曲はキリストの苦悩がじかに伝わってくるような感動的な作品です。
演奏時間が3時間を超える大作のため、演奏される機会があまりありません。
この作品はヨハン・ゼバスティアン・バッハの死後、忘れられていたのですが、およそ100年後の1829年にフェリックス・メンデルスゾーンによって再演され、復活しました。
その後バッハの作品の価値が認められ、ハイドン、モーツアルト、ベートヴェンがお手本として研究し始めたのです。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは音楽家としての地位を高めるため、王侯から称号を与えられることに奔走したそうです。51歳になったとき、ポーランドの王様、ザクセン選帝侯よりザクセン宮廷作曲家の称号を授けられます。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの創作活動はさらに充実していきます。
数々のカンタータ(声楽曲で独唱・重唱・合唱に器楽の伴奏が付いた多額章の曲)、ヴァイオリンのための作品、管弦楽、コラールなどその作品は数えきれないほどです。
また、鍵盤楽器の曲も多く作曲しています。
特にイタリアで盛んだった協奏曲(オーケストラの伴奏で独奏楽器が演奏するスタイル)を学び、バッハはそれを2段鍵盤楽器で演奏するように作曲したのです。
イタリアのスタイルを取り入れたイタリア協奏曲は、ピアノの学習をしている人の中には、「弾いたことがある」人もいるのではないでしょうか。
ヘ長調、ト短調、ヘ長調の3曲で構成されているこの曲は、1734年ヨハン・ゼバスティアン・バッハが49歳の時に作曲し、次の年に出版されています。
当時の人々にも人気があったということです。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽は感情を越えて、理知的な構造物となって、緻密に設計された建築のように感じられます。
この時代の作品をいくつか紹介しますね。
・ロ短調ミサ曲 BWV232
・ゴルドベルク変奏曲 全32曲
・音楽の捧げもの BWV 1079
・フーガの技法 BWV 1080 重厚な音楽がパイプオルガンの響きによって、いっそう深く聴こえます。
・教会カンタータ
・平均律クラヴィーア曲集第2巻 BWV 870-893
すべてYouTubeで聴くことができます。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの最期
1749年に脳卒中で倒れたものの、程なく恢復したのですが、かねてより視力が失われてきたため、目の手術を受けました。
しかし、手術は失敗に終わり失明してしまったのです。
他の医療機関で2度目の手術を受け、それもうまく行かず体力を消耗してしまいました。
これらの事が原因となって、1750年7月28日永遠の眠りにつきました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生涯は対外的に華々しいものは無かったようですが、内面の崇高さ、深い心、緻密な構成が作品に宿り、のちの世に大きな功績を残したのです。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽が導いてくれる世界を、是非体験してみて下さいね。

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